Saturday, 31 December 2011

トライアスロン1

いい加減解雇録ならぬ回顧録を書くのが面倒になってきて、ドラフトの状態で眠ったままになってきたので、気分を変えてトライアスロンについて書いてみる。

最近トライアスロンを始めた。まだ超初心者だけど。理由は下記のような感じ。

1.中学1年生のときの担任(体育教師、体操元オリンピック代表候補という噂)に、「たむこーはトライアスロンとか向いてるよな」、と言われたこと。結果バスケットボール部に所属w

2.おそらくちゃんとトレーニングしたらある程度ぼちぼちやれそうな気がすること。水泳は小学校のときは市で優勝したことがあり(高校の友人のK澤氏のように全中上位になるような実力はもちろんない。さらに、速かったのは平泳ぎであり、クロールは平泳ぎより遅かった)

3.自転車はもともと乗るのは好き。太ももも太いからなんとかなるのではと思っていること(実際にスピードを出してこぐのは足だけじゃなくて全身の筋肉を要する上に、タフさが全く足りない問題あり)

4.走るのも昔は速かったこと。ただ懸念点は短距離の方が比較的得意だったことか。中学1年生のマラソン大会で過呼吸で倒れてから、長距離を全力で走るのにやや抵抗あり。

5.ゴルフ、サーフィン、テニス等色々なスポーツに手を出しすぎて、全て下手なままであり、まずいと思っていたこと(バスケットボール、空手以降自分でぼちぼちできると言えるスポーツが皆無)。

6.比較的年をとっても続けられる(もしくは続けている人がいる)スポーツであること

7.痩せるためのモチベーション(18歳時点で、体重73kg体脂肪率7%だったのが、30歳時点でマックス体重95.5kg体脂肪率計測不能に陥った)

いつかIronman Race出たいです。でも自転車のこととか自分の体のこととかもう少しわかってないといけんね。


Wednesday, 9 November 2011

暇なので、回顧録。17

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)

 繰り返しになるけど、「暇なので」と題に書いてあるが必ずしも暇ではないです。でもまぁ書く暇がある、という意味では暇か。結果としてすぐ書くスピードが遅くなるので、もしも続きが読みたいという人は是非催促してください、、、。

 とにかく僕のオーストラリアでの2回目の生活は始まりました。レズビアンの彼女たちとの居候の期間は終わり、僕の友人の友人(だったような気がする)の家で今度は住むことになりました。Greenslopesというところ。ここは、いい思い出がないので書きたくないのですが回顧録なので憶えている限り書いてみようと思います。

 唯一よかったのは家賃。週70ドルでした。今から考えるとものすごい安いけど、当時の感覚でも安かったです。一つ部屋があって、一応机とベッドがあって。あとは、基本的に非常にいまいち。というか、一緒に住んでた‘友人の友人’がその妹と一緒に住んでいて、僕はそこの空き部屋を借りるような形になっていたのですね。あぁ、何がいやだったかというと、まず、多勢に無勢(ようは、僕の立場は居候に極めて近い形であり、住空間に対する権限がほぼゼロ-という風に少なくとも僕は感じていました)。あとは、出来上がった空間への侵入者的な扱い(を受けているように感じていた)。ようは、自分の部屋以外にいるときにとにかくリラックスできないわけですよ。話すこともないし。てかまぁ英語的に微妙だったし、こっちから話しかけるような感じでもなかったのが原因なのかもしれないですが。あと、猫がいたんだけど、一度猫のう○こを素足で踏んでしまったことも。今のうちの猫はかわいいけど、あの猫は憎い。憶えてないけど。さらに、大学までも遠かったし、、、(車がない当時の感覚では特に)。

 その頃、大学院が7月に始まるまで(オーストラリアでは、大学は2学期せいで、1学期目は2月の終わりから6月の途中まで、2学期目は7月の終わりから11月の途中までで、1学期目からでも2学期目からでも入学可能)、大学の付属の英語学校に3ヶ月だけ通っていました。

 一瞬ここで脱線して、当時の英語学校感について少々。今はそこまで思わないのですが、とにかく英語学校というものに対して、「2流」という印象を持っていました。英語学校いくこと、かっこ悪い、が「いじめ、かっこ悪い」並みにしみこんでいたわけです。これは、なんでだかなんとなくわかる。おそらく理由として、友人で英語を話せる人がいる、英語で勉強してる人がいる、という事実と比べて英語「を」勉強する、ということが段階として「下のこと」だという思いがあって、逆にそういう風に自分が思っているものだから、「下」に思われたくない、という動機で英語学校に行きたくなかったわけです。人に聞かれても、「大学院が始まるまでの間だけだし」みたいな感じですな。ようはかっこつけですよ。英語できないんだから(てか、マジ自分で言うのもほんとアレだけど自分の学歴でこれって日本の教育どうよ!って思いますけど)、できないなりに恥かけよ、って今は思うんですけどね、、、。

 ちなみに、英語学校に実際に行ってから大分印象が変わりました。もちろんある程度上のクラスだったから、っていうこともあるのだろうけど、意外と役に立ちそうだなぁと当時思って、それから英語学校に対する偏見は特になくなりました。まぁその時点に至るまで英語学校というものに通ったことがない、という事実にどこか誇りを持っていたようなところもあるので、それも偏見の原因になっていたのかもしれません。

まぁ、とにかく英語学校に3ヶ月通って、その間はうんちみたいな仕事を会社でさせていただいておりました。

続く。

Sunday, 6 November 2011

暇なので、回顧録。16

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)


無事に?ブリスベン空港へ到着し、日本人の上司の車に乗せてもらい、家まで送ってもらう、、、けど家はどこ?


実は、交換留学生時代に一緒に住んでいたシンガポール人のカップルのところに泊めてもらうはずだったのですが、確か出発の数日前に確認したらテスト期間中だから難しい、とのこと(まじか!てか、今思うとちょっとひどい。でもまぁいっかって思ってしまう私、いまいちなのかどうなのか、、、)。今の会社が確か始めの2週間分くらいのアコモデーション代は持ってくれるような契約になっていたのですが、チキン日本人の僕は、それを「申し訳なく」思い、そんなことにお金は使わないことに。だってこんなペーペーがホテルにしばらく住むとかってお金の無駄でしょ。ちなみに今だったらこういう正当な権利はちゃんと行使する。不必要でない限り、、、。


とはいえ、僕を送り届けたあとで上司も出勤しなければいけないわけで、したがって僕をどこかで落とす必要があるわけです。空気を読んだ僕はとりあえずUQ(クイーンズランド大学)に行って下さい、といい、そこからは適当になんとかします、とノタマウ。


UQのキャンパスにポツ-ンとスーツケースと僕。宿のことは一忘れし、あー久しぶりだなぁ、と。これが来豪イッパツめだったらかなりてんぱってだろうけど、なんとかなるだろう経験値はだいぶ上がっていたのであった。まぁ所詮最悪ホテルにいけばいいだけだし、つまりお金の、しかも大したことない金額の、問題なのだ。最悪ケースでも。最悪のケースで抱えられるリスクかどうかを考えてリスクをとる、という生き方はこのあたりで始まった、、、。


さて、とは言うものの一人でその瞬間どうこうできるわけでもないので、UQでお世話になったU先生のオフィスへとりあえず行ってみる。何言ってるんだ、と思ったに違いないU先生は、ナイスにしてくれ、彼女の講義に参加している学生で、スペアの部屋がある学生がいないか聞いてくれると言う。この時点で、ラッキーと思いつつ、見つからなかったらどうしよう、という思いはゼロ。U先生のオフィスのフロアで2,3時間寝る。当時はまだカンタス便で成田→ブリスベンの直通便があったけど、エコノミーはやはり寝られない(といってももちろんビジネスは乗れない)。


結果的には一人部屋が空いている、という女の子がいて、授業のあとU先生にその子の家まで送ってもらうことに。ほらね、なんとかなるでしょ、と心の中で思いながら家に到着。女の子二人がすんでいるタウンハウス(アパートと家の中間みたいな奴)で、場所はIndooroopillyという、ブリスベンのCBDから電車で15分、UQまではバスで、、、同じくらい?のところでした。かといって、そこに長居できるわけではないので、新たな住処が見つかるまでの一時居住。


日本語を勉強している女の子だったので、アサインメントを手伝ったり(というか、それはCheatだろ!と思うんだが)、一緒に夜遊びにいったりしつつ、まずはそこからとにかく会社には出勤?はじめました。出勤といっても、たいしたことはやりませんでしたが、、、。ところで、後になってわかることですが、この女の子二人は同性愛者でした。そう、オーストラリアには同性愛者いっぱいいるんだよ!


続く。





Saturday, 5 November 2011

暇なので、回顧録。15

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)


ブリスベンの空港には、日本人の上司が迎えにきてくれました。ここで一つエピソードが。ただし、このエピソードはかなりの人数の人が知っているので今更感があるかもしれません、、、。


空港でも依然極度のキョドリを見せていた僕は、おそらく周りから見ても極度のキョドっているのがあからさまだったと見え、税関の申告場所でスーツケース全開示を求められました。「オーストラリアには何しに来たんだ」って聞かれて、勉強と仕事ですって答えたわけだけど、これは完全にXな答え。勉強って言わなきゃいけなかったです。今思ったら。学生ビザだったしね。まぁ学生ビザでも働けるから問題はないんだけど。日本はまだオーストラリアの移民局的にノーマーク的な位置づけだけど、「もぐりこもうとしてる」と思われかねない国からの学生だったら、まずかったでしょうな~。


スーツケースは全部ひっくり返されて大変なことになりました。ここで問題発生!23歳、しばらく彼女がいないことを覚悟していたワタシは大量のアダルトDVDを持参していました。大量っていっても10枚くらいだけど。この大半は高校の友人T木氏からもらったサンプル、、、。なんていうんだろこういうの。旅の祝いだもってけドロボーみたいな感じだったのかな、、、。当然発見されるわけです。担当官に。


担当官「なんだこれは」
田村「、、、ポーンです、、、でも、違法じゃないよ、合法の奴。合法の奴、、、」


と必死に自己弁護をする。いや、本当に合法のやつだし!


結局担当官は全てのアダルトDVDを持って立ち去り、僕がまぁしょうがないかーと思っていた頃(確か20-30分くらい待たされた-この時間については諸々の憶測をよんだ)、帰ってきて全部戻してくれました。


というわけで、そもそも朝のブリスベン空港はごった煮状態で混むのに、こんな出来事があり入国ゲートをくぐることができたのは相当後のことになってしまいました。空港の到着フロア(よく旅行のツアーの人とかが旗とかもって待っているところね)で頭をかきかき日本人の上司に挨拶。彼は、僕があまりにも出てこないから、日程を勘違いしたと思い、もう帰ろうかと思っていたとのこと。


日本人の上司「なんでこんなに時間かかったんだ?」
田村「いや、、、ちょっと言えないっす」
日本人の上司「言わなかったらクビだー今すぐ帰れー」(と言ったかは定かではないが、後日談-たぶんこんな言い方ではないw)
田村「いや、、、ちょっとエロDVDが見つかっちゃいましてw」


というわけで、大阪出身の彼にはこの反応がウケ、事なきを得たわけですが、そう時間がかからないうちに、ブリスベンの日本人ビジネスコミュニティーでは、僕は「DVDの彼」として認識されることになり、会ったことがない人からも「あーキミがあのDVDの!」と言われるまでの有名人?に短期間のうちに成長するわけです。結果、おいしいネタになったわけですが、税関は気をつけたほうがいいですね。


続く。

Friday, 4 November 2011

暇なので、回顧録。14

1.5.大学卒業後、再渡豪


おそらくもろもろの送別会(のようなもの)をしてもらった後で、渡豪する日がきた。といっても、正直これもまたよく憶えてない。ぜんぜん回顧できてないな、、、。あの時は親も一緒に空港まできてくれたんだったけな。高校のバスケ部の友達(+後輩一人)が空港に来てくれたのは憶えてる。というか、その写真があったからなんだけどね。写真のおかげでなんとなく憶えてるんだよな。ていうか、本当に憶えてるのか写真のおかげで事実を記憶しているのか、どっちでしょう。


ふと思い出すのが、高校の友人のN田氏がアメリカの大学に行くために飛び立つとき、これまたバスケ部の友達が成田空港に大挙して見送った気が。このときは見送る側だったけど。そんでもって彼が出国ゲートに消えたあと、みんなで屋上にいって適当に飛行機を選んで、彼がその飛行機に乗っていると仮定し、その飛行機に手をふって空港をあとにした、、、。そんなエピソードがありました。


さて、飛行機の中で何を考えていたか、というと、確か交換留学に行くときに飛行機で感じていたことの差を考えていたような気がする。交換留学のとき、1年間日本から離れて暮らす、ということに対して、ものすごい長い期間だと思っていたのが、2回目(しかもほぼ永住の方向)には逆にあまりなんとも感じなかったのだった。ただ、それよりも、初めて会社で働くということ、そして英語で働くということに対してびびりまくっていたのは当然のことであった、、、。


留学したことがある人ならわかると思うけど、特にある程度の年齢になってからだと特に、1年で自分が期待してたほど言葉はましにならないってこと。完全にスラムダンクの桜木花道のセルフイメージ状態ですな。いや、セルフイメージと実際の姿との差に辟易して、焦って、ということ。桜木花道も地道なトレーニングでシュート練習をしたのと同様、地道な作業によってしか向上しないもの、というのもある、、、。さらにいうと、10年いても地道な作業を怠ると何も変わりません。うーん。偉そうだw 完全に自戒をこめたメッセージになってしまった。


とにかく、いいたかったのは、いくらTOEFLで300点中270点以上とってても、だめなものはだめ、ということです。1年間交換留学した後でもね。もちろん以前よりはましになったとしてもね。電話するときとか電話かかってきたときの恐怖感、わかる人いっぱいいるでしょう。あの恐怖感を感じながら飛行機に乗っていたのです。


続く。

Thursday, 3 November 2011

暇なので、回顧録。13

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


「暇なので、回顧録」と書いた手前、特に暇でもないと書く気がしなかったのだけど、今日友人のK澤氏から書けという要請が来たので書くことにします。


正直どこまで何を書いたか覚えていなかったんだけど、実はちょっと前のを読み返すと、そもそも何を書いていいかよくわからなくなってきていたのと、ある特定の時期についての記憶が非常に曖昧になっていることがあり、ようはストラクチャーだって書けなくなってきたのも原因だった、、、気がする。でもとにかく書いてみる。書き始めると意外と思い出すものだ、、、。


2度目の留学件就職(というか移住)という時期は、混沌としてました。いや、だからよく覚えてないんだな。混沌の要素としては、卒論(休学届けを9月に出して、10月に撤回したものだから、準備期間がほぼなし)、バイト(というか、前回話したオークションサイトの件)、英語不安(前回さらっとTOEFL受けなおした、と書いたけど、そういう問題じゃぁありません)等。これは勉強・仕事とは関係ないのだけど、高校の同窓会の開催(結果的にはよかったけどややぐだぐだな幹事でした)もある時期の忙しさを助長したかと。


卒論については、大学のPCルームで他の人と一緒に製本してた、、、ような記憶が。バイト、については前述のとおり。英語不安については、、、これまた覚えてない。とにかく混沌として充実してた、という思い出だけはありますな。これ、全然回顧できてないね。面白いくらい過去のことを忘れている、という事実。そんな昔じゃないのに。


うんうんうなっても覚えてないものは覚えてないものは覚えてないので、そろそろもう豪州に帰ってきたときの話をしようと思いますが(特にカテゴリーを勉強・仕事、としているので、あまりエピソードなし)、一つだけ今思い出した。


実は僕は大学1,2年の教養学部では成績微妙者だったのですが、3年生になってからまじめに勉強したせいか、成績は非常によかったのです。なぜいい成績をとろうと思ったかについては前述したと思うので再びは触れませんが(実際後で役に立ってると思う)、とりあえず同じ学科の中で成績はトップ(ただしタイ)でした僕のいた学部では、持ち回りの学科の成績トップの人が卒業証書を代表でもらうことになっている(らしい)のですが、僕はどうやら平均ではトップでも『優」の数がもう一人のトップの人より少なかったので(これは交換留学のときの単位が互換されたされたときに日本の大学で成績がつかなかったので)、残念ながら代表でもらうことにはなりませんでした。


まぁどうでもいい話なんですが、そいういうわけで、それだったらいいや、と思って大学の卒業式には出席せず、謝恩会に顔を出して卒業証書だけもらいにいきました。きっと意外としこしこ勉強したのを認めてもらいたかったんでしょうが、今は卒業式でてもよかったのかなぁとは思います。でも、これはその後取得する学位・資格すべてに通じることですが、卒業式とか資格授与式とかにはまったく興味が持てず(10%くらいそれをクールだと思っているフシは否めませんが)、結局全部郵送してもらってます。


でも、ひそかに卒業証書を学部代表でもらうってのはやってみたかったなー。


続く。

Monday, 17 October 2011

暇なので、回顧録。12

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


さて、とりあえず書類諸々の話(雇用契約書とかそういう奴ね)は終了し、ただ今度はオーストラリアで会計士の資格(多くの会計事務所では、Chartered Accountantをとらされます。企業の経理の人は、CPAが多いように思います)をとるために、オーストラリアの関連する学位が必要で(特に僕の場合、日本の大学の学科がほぼ無関係なので)、また願書だのなんだの、という話が必要になりました。そして、TOEFLももう一度受けなおし。さらに、前回(交換留学のとき)みたいに、英語が全くできないんじゃいくらなんでもまずいだろう、ということで(留学の後日本にしばらくいた間は、比較の問題でできると思ったり、あとは1年留学していた、という事実自体と自分の駄目さに向き合わなくていいばかりに、意外と大丈夫だと思いがち)、どしたもんだ、と思っていました。


こっちの準備のほうはさておき、そして実際の卒論の準備には、触れることなく(触れる気もなく)、前述の通り、僕が働かせてもらっていたベンチャー企業は、二人の某コンサルティングファーム出身の人が立ち上げえた会社でした。で、フルタイムが難しくなったため、じゃぁフルタイムじゃないという前提で、そのうちの一人のお手伝いをすることになりました。当時、彼は個人としても(どのような形態で仕事をとってきていたか、とかは知らないですが)コンサルティングを行っていて、これはもう時効だろうと勝手に決めて話してしまいますが、とあるオークションサイトの立ち上げをするプロジェクトに関わっていました。そのプロジェクト自体の内容を詳しく書くことにはあまり意味がないと思うし、そしてよくは覚えてないので書きませんが、ようは、そのプロジェクトの中の一部に関するリサーチ業務を行っていた(のを手伝った)ということなんだと思います。


そう長くはたたないうちに、リサーチ等の結果判明した何らかのクリティカルな法的な理由で、このオークションサイトのプロジェクトが座礁して終わった、と記憶してますが、その過程で、イスラエル人、アメリカ人とミーティングしたり、弁護士とミーティングしたり、そういう機会があるたびに連れて行ってもらって、じゃぁその結果何か具体的なスキルを得た、とかそういうことじゃないんですが、そういう世界が遠くに感じなくなるという意味でいい経験でした。銀座のセゾンカードがあるところのカフェでよくミーティングしたなぁと懐かしく思います、、、。


ところで、あまり大きい声で言える話ではないのですが(でもこれも時効だろう)、今の会社で働くことが決まってから、次の年の就職活動が始まる時期に合わせて行われるインターンシップに応募してみたりもしていました。実際面接に行ったのは一箇所しかないのですが。某コンサルティングファームのインターンシップの面接は、1,2次面接が普通の面接、3次面接がグループディスカッションでした。1,2時面接は普通に通過して、3次面接のグループディスカッションを行う段になりました。グループディスカッションというのは、どうやら御題を与えられて、それについてグループで話し合い、最後に自分たちが至った結論を報告し、その結果およびプロセスで合否が下される、というものでした。


結果から言うと、僕は通らなかったのですが(こう聞くと面接落ちてばっかりなみたいだなぁ)、振り返れば失礼なことしていたかなぁと思います。その時点で既に就職先は決まっていたわけで、その中で言い方は悪いけど遊び半分で受けていたのはよくなかったなぁと。その態度が結局落ちた原因だと分析しているのですが。まず、準備ゼロ。こういうことが行われる、とかそういうことに関する下準備ゼロで参加。次に、しゃべりすぎ。これも準備と関係あるのかもしれないんですが、自分が言いたいことだけをいいすぎ。さらに、不適切な言動が多かった。結論を報告する段に及んで、コマネチまがいのことをかました、という、、、。さらに、3人のグループの中には、京都から新幹線で来た人もグループの中にいて、彼は京都から来てトータルで1,2分しか口を開かなかったという話。わざとじゃないんですけど、深層で余裕かましちゃってたんだろうなぁと思います。決して褒められることではないですね。


続く。







Saturday, 15 October 2011

暇なので、回顧録。11

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


ベンチャー企業でやっていたことは、他の人に相談してからにする、と書いたけど、いずれにしてももう時候だろう(というか、別にConfidentialityが高いことをやっていたわけじゃないと思うし)ということで書くことにした。リスク判断は、今の仕事で一番学んだことですね。取れるリスクはとってよし。リスクゼロにするのは、いつだってコストが伴うのである。お金に限らず、時間とか、色々ね。


、、、とそこまで書いてから、何をしてたんだろうなぁ、というとよく覚えていないわけです。覚えていたのは、研修パッケージの営業をしていたこと。コールドコールから、フェア?みたいなものへの参加、アポ取り付け、アポ先へ訪問、など。ここでも実績ゼロ(受注ゼロ)のため、一切評価されるポイントはございません。ただ、経験としてはよかった。大学生で大手の会社に営業をしにいけるってやっぱりなかなかないじゃないすか。某M電気とか、某Tエンジニアリングとか某時計会社とか、結構いろいろ行きました。経験でよかったですむのはアマちゃんですがね。実際の営業の人は、受注ゼロだけど経験になった、じゃすまないしね。提案できる営業じゃないと、バリューだせないよね。営業はコンサル、っていうのはほんとだと思う。お客様に届けられるバリューの具体的な提示して、また具体的なイメージを沸かせる。そしてデリバリーはそのギャップを埋める作業。今の仕事でも一緒だけど、問題点の特定、新たなバリューの提示、が基礎なんだろうな。そして新たなバリューの提示ってやっぱ難しいと思うです。だってまわりとかベンチマークとかと比べて、じゃだめなわけでしょ。


あと、これまた印象に残ってるのは、とにかく3つ理由を言う、というトレーニング。3つ理由を言うと、それっぽく聞こえる、というのは世の人々は結構実践しているのでは。みんなでコンビニ行った時、とにかく3つ理由を言うゲームをやったなぁ。ゲームなのか、わからないけど、メリーポピンズに言わせれば、"In every job that must be done, there is an element of fun. You find the fun, and - SNAP - the job's a game!" ということなのである。ちなみに僕はメリーポピンズが好きで、マトリックスが好きで、サウンドオブミュージックも好きだ。


受注ゼロ実績のまま、色々あって、オーストラリアに戻ることになりました。


色々あって、ということはないんだけど、回顧録7で登場した今の会社の日本人の上司とも、メールで連絡を続けてました。何を書いてたかってきっと他愛のないことで、こんなことを今してる、だのそういうことです。あと、同時期に実は大学に休学届けも出していました。というのも、結局新卒採用の就職活動が始まる時期っていうのは決まってるわけで、卒業をもう1年遅らせて、当初の予定通り?投資銀行に行こうと思っていたんですな。投資銀行に行きたい理由なんて、給料が高い、入りづらい、すごいと思われる、そういう程度。それをあれこれ肉付けしてそれっぽく聞こえさせるのです。


(予断ですが、大学1年生の頃、家庭教師派遣会社-TRYみたいなところ-に面接しに行った時、なんで家庭教師をやりたいか、と聞かれ、お金です、と正直にいったら連絡は二度ときませんでした。そこで「自分が勉強してきたことで、今同じような勉強で苦労してる人の役に立ちたい」とか言えばよかったとは思うけど、そういう正解の回答っていやになっちゃう時期ってあるよね、、、。でも大人になったら-政治家を見てたらよく思うけど-尚更Politically Correct Statementを求められる。そう思うと、コミュニケーションの目的ってなんなのよ、って話になるね。コミュニケーションっていうのは、内容じゃなくてその事実と伝え方のほうがたいてい重要だって時もよくあるし、そのポイントにおいて真実を伝える、というよりは他の目的を達成するために内容が決まるtということもあるのかと)。


とにかく、休学届けは出してたわけです。それだけ。


丁度その今の上司とのメールのやり取りの中で、急にオーストラリアで働く気はあるか、ときかれました。びっくりしたけど、ダウンサイドないし(彼女も当時いなかったし失うものなし)、英語環境で、会計の仕事できて、今現在他にものすごいやりたいことがなかったし、すぐ行くと決めました。といっても、一応書類上の手続きはもろもろあったんですが。問題は、休学届けを既にだしていたので、それを撤回することでした。撤回は普通にできたんだけど、実はあと10日くらいで撤回が無理なタイミング(確か10月の半ばくらい)まで来ていて、それこそ卒論がやばし状態。急造で3,4ヶ月で仕上げ(ほんとに大したことない内容に当然なりましたが、、、)、卒業できることになったのですね。


ちょっと大学卒業からは遡って、一方で、オーストラリアに行くことを決めた時、ベンチャー企業については、卒論をするためということで、働くことをやめました。基本的にフルタイムで働いていたので、それを続けるのは無理があったから。ただ、フルタイムじゃなくて、その会社を僕の中学高校の先輩と一緒につくった人と、個人的に半ばバイト感覚で仕事することになりました。


続く。





暇なので、回顧録。10

1.4.交換留学後-卒業まで


6月に帰国後、2月に面接を受けていた会社と続きの面接を受けて、結果落ちた、という話はしました。ここで、若干計画が狂ってしまったので、どしたものかなぁということで、とりあえずよくわからないけど、そのとき丁度第一期生の募集が始まっていたロースクールに出願してみました。というか、適性検査みたいなやつですね。理系の学生として大学に入学して、いわば文転して(この理系・文系の区分けについては否定的な見方もありますが、その区分けについて話しているわけではないので、ここでは普通にコンセプトとして使用します)、留学して、しかもやりたいことよくわからない、と収集つかなくなってきてたわけなのです。かといって大学ももうすぐ卒業してしまうし、勉強は基本的に嫌いじゃないので(勉強をしなければいけない状況で、し始めるまでの時間は嫌いですが)、しがみつける何かにしがみつこうとした、というのおそらくほんとのところだったんだろうな。かっこはつくじゃないですか、一応。(いや、法律に興味がなかったわけじゃないけど、こういう側面は決して否定できない、ということ)


基本的に、法律経験者(法学部出身者ってことなのかな)以外は、3年制のコースにはいって、入学時には法律の知識は求められない、と。あと、基本的には論理性とかそういうののテストと、多様性?を重視するということで色々なバックグラウンドを持った人を募集するということで、いいんじゃない、と思ったわけです。論理性のテストっていうのは、昔小学生の頃よく読んでた「頭の体操」みたいな感じなのです。だから、そんなに大変じゃないというか、ゲーム感覚。こういうこと書くと、「なんだこいつは自分が頭いいっていうことを誇示したいのか」ととられがちでまぁそう思われたいという願望を残念ながら持っているのは否定できないのですが、そういうことじゃなくて、純粋にゲームみたいな感じなんですね。で、模試みたいのも受けてみたりしました。


一方、その頃今ではどうなってしまったかわからない同窓会サイト「ゆびとま」(このゆびとまれ、ってことですね)で、僕が中学1年生のときの高校3年生の先輩を発見し、なんとなくメールを送ってみる、ということをしました。実は今思えばここから今の奥さんと結婚する布石が打たれ始めていた、、、。今でも覚えているんですが(この台詞、意外と出てくる-でも、実は自分が覚えていることって、やっぱりあるポイントが多くて、全てが鮮明に記憶に残っているわけじゃない、ということを今回回顧録を書いててよく思います)、どこかの(覚えてるって言った割には場所を覚えてない)とんかつ和幸で、一緒にご飯を食べました。彼は、というか僕の周りの人は知っている人が多いと思うけど、学生のときバーやったり、某コンサル会社で働いて、その後その某コンサル会社の先輩と一緒に会社を立ち上げた人でした(具体的にどうこうっていうのはおそらく文脈にあまり影響しないので割愛)。


とにかく、時間あるならうちの会社で働いてみない、という話になり、その次の週から都内某所(オフィスは自宅兼)で突然働き始めることになりました。ここで何をしていたか、というのはまた後で書くとして、こう状況だった、ということ。


で話はロースクールに戻るんですが、実は模試の結果、最高学府合格可能性がA判定だったこともあり(これまたアレですが、たまには昔のつまらない栄光を話させてくれよ、という話、、、。つまらないのはわかってるんですけど、、、書かなくてもいいんじゃないか、という気もするんですけど、一応ネタとして書かせてください。あぁ俺駄目な奴。この辺りの葛藤ってみんなどうやって処理してるんだろう?すごいって思われたいっていうのと、それ、かっこ悪い、っていうののせめぎあい。いや、理想は、自分が何も言わずにすごいって思われたい。でも、言う言わずにかかわらず、他人の目を気にしてどうすんの?という内なる声。あぁぁぁ)、正直半ば目的を達成した気がして、あとそのベンチャー企業で働くことにもなったので、結局実際の試験は受けずじまいでした。


仕事の内容をどこまで書くのか、という点については、ちょっと他の人と相談してからにしますが(あんまり問題ないと思うけど、一応)、初めてバイト(いや、バイトみたいなものなんだけど)じゃない仕事っていう感じの仕事ををしてみた初めての機会でした。この頃知り合った人は、今でも何らかのつながりがあったり、仲良かったり、お世話になったり、これらの複合型だったり、、、。色々ですね。でも、一気に知り合いの種類が増えた気がします。仕事の内容を書かないとあんまり書くことなくなっちゃうな。お世話になってる割に、こちらからお返しができているどうか、というと全くなので、なんだか申し訳ない気がしています。


続く。

暇なので、回顧録。9

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


ようやく交換留学時代の後半に入ってきた。こんなに長くなるとはおもわんだが、、、。とにかくGatton Campusを離れ、Miltonで夏休みを過ごし、日本にいって、今度はSt Luciaのアパートのすむことになりました。大学(UQ)から徒歩15分くらいの大き目のユニットコンプレックスで、当時は2ベッド2バスルーム、週300ドル(だから僕は週100ドル払ってた)でした。そこに、シンガポール人のカップルと二人ですむことに。変則的なことに、彼らはカップルなのに、女の子がオンスイート(部屋の中にトイレがついてて大体部屋も大きい)に住み、もうひとつの部屋に僕とその彼氏が住む、という。夜はその彼氏は女の子の方の部屋で寝るという。


今考えると、ちょっと利用されていただけなんじゃないか、という思いも(ただ単に300ドルを二人で住むのが高かったから?)しないわけじゃないですが、いまだに彼らとは連絡あるし、当時は僕が車もってなかったから、車を持ってた彼らと一緒に行動できてよかったし、数年前シンガポールに行ったときもお世話になったりしてました。


さて、勉強はというと、これがまた何をしたかよく覚えてない。どうやら成績表によると、会計の基礎(Accounting for Decision Making)、Introductory Economics, International Trade Theory and Policyという三教科を取っていたらしいのだけど、ほぼ記憶無し。ひとつあるのは、会計の教科の最後のアサインメントで、盗作の疑いをもたれたことでしょうか。提出直前に同じクラスだった人に見せたせいだと思ってるけど(その人は僕のを見て提出直前に色々書きなおしてた、、、)、それも学んだレッスンのひとつでしょうか。アサインメントを見せる、という行為に付きまとうリスクを体で理解。こういうの、アサインメントだけじゃないよね。性善説が当てはまらない場面もあるし、他人を責めなくてすむためにも、気をつけることは必要。秘密を誰に話すか、という場面に似てるね。秘密を誰かに話すということは、その誰かは秘密を守らなければならない、という義務が発生するわけで、その義務の履行が行われない場合、当然その誰かとの関係は悪くなる可能性がある。ということで、信頼する、ということは、仮にこいつならもしもその義務の履行が行われても、関係性自体に損傷はないだろう、という確信なのだと思っている。また、脱線した。結果大丈夫だったけど、あれ、大丈夫になっててよかったよ。後から考えたら。でも実際無実だしね、、、。


ちなみに、話が前後するけど、ブリスベン(というかSt Luciaキャンパス)に出てきてまず思ったことは、アジア人が多い、英語がわかりやすい、まさに映画で見るような外国の大学のキャンパスって感じ、の三点。日本の他の大学からの交換留学生も多いし、なんというか、そうだよな、これが普通の留学だよな、、、と思った次第。みんな自分が特別って思いたい理論に違わず、で申し訳ないですが、Gattonのオンキャンパスの寮→ユニットで友達とシェア、という交換留学生は非常に少ないと思われる。滞在期間が短かったら、普通住むところも一括で準備しちゃうし(したがって、通常はいる間ずっと大学の寮にいるケースが大多数なのではと思う)。だからいいのか悪いのか、というとまたこれは当然これは別の問題で、そして当然また一概に言えない。でも、St Luciaキャンパスの寮にいる人は、きっと友達とか作りやすいんだろうなぁと思ってました。でも俺はその間にシンガポール人の英語に慣れたぜw


ベトナム系のオーストラリア人と友人とこの頃は仲良くしてました。彼の友人とサーフィンにいったり(といっても、サーフィンをしていた、と言えるような状態にはもちろんならず、今もサーフボード持っているけど、完全に飾りと化している、やっとボードに乗れる程度まぁそれでも楽しいけど。また脱線)、まぁよく一緒にいました。あと、日本語を勉強している学生と、日本からの留学生の交流会(Conversation Classと呼ばれていた、というか今もあるかも)みたいのがあって、そういうところにいくと、日本に関心を持ってる、日本が好きなオーストラリア人がいるので、さらに交流がし易いのですね。


正直、これ、言っちゃうとなんなだかなぁという話になりそうですが、そういう場にいることをいまいち、って思ってたんですね。理由は、難易度が低いところで楽しそうにやってるから。おれは日本人とつるまない、とか、日本に興味を持ってる人から入るなんて軟弱である、とかそういう思想です。実際のところ、St Luciaにきてまた、最高学府スゲーみたいなこと言われる環境になるわけです。英語がいまいちな日本人が、オーストラリアで人と仲良くなる難易度(この書き方がもう偏差値で育ってきた世代ぽくていやですが→偏差値の過大偏重も問題だけど、そのBackfireもどうなの、と思う。日本以上に学歴偏重の国、結構多い気がする。検証はしてないw)は、日本人→日本が好きなアジア人(アジア系オーストラリア人を除く)→日本が好きなアジア系オーストラリア人→日本が好きな非アジア系オーストラリア人→その他アジア系オーストラリア人→その他非アジア系オーストラリア人、となるとして、Gattonでは、最後のカテゴリー(その他非アジア系オーストラリア人、日本に興味なし)の中で戦ってきた(そして敗戦してきた)僕としては、日本の枠組みが通用してしまうことに軽く快感を抱きながらも、それを悪として捕らえていたわけです。


この順序付けは、実際間違ってはいなくて、ようは共通の会話のトピックの多さに反比例して仲良くなる難易度は高くなるに決まってるってこと。そりゃそうだよね。ただ、この順序付けの問題点は、これがそのまま、難易度が高い→達成してるとすごい(てか、そう僕が思っちゃっていたところ)、ってなるところ(だと思う)。俺、今まで上位リーグで戦ってたんだぜ、と。これ、おそらく敗戦国の意識を引きずっている部分(白人≒アメリカ人に対する劣等感)と、上位に位置する人種が使用する言語(と僕が思ってるわけじゃないですよ、でも、これを説明するとなるとそういう風に心のどこかで思ってる可能性に言及しているだけです)であり、世界で国際言語としての地位を(少なくとも日本語よりは間違いなく)確立している英語に対する劣等感を顕著に示してるんじゃないかなと思うので。一応自分をかばうために一言言うならば、その場にいる日本人の人たちを個人的に軽蔑してたわけじゃないし、今でも連絡取ってる友人もいることに留意を。当時の、その場における僕の精神状況を説明している、ということで、今の僕が思ってることをわけじゃないんだよ。


続く。











トライアスロン日記1

回顧録だけでは今のことまったく書くことがないので、とりあえずトライアスロンに向けての日記を書くことにする。これも備忘録みたいなものだけど。

今日はTwitter上でもFacebook上でもぶつぶつ言っていたとおり、せっかく水泳のSquad Trainingに参加しようとして朝6時にプールにいったら、誰もいなかった。というわけで、今日はこんなトレーニングをやろうと思ってます。

家に事務器具がおいてある(といっても、ルームランナーとベンチプレスだけ)ので、豪雨のこんな日でもトレーニングは家でできるのは救い(といっても、そんなしょっちゅうちゃんと使っているわけではない)。今日のメニューは以下のとおり。ただ腰がまだちょっと痛いので、気をつけないとまた動けなくなる、、、。サポーターつけてやろうかな。とりあえず今は脂肪燃焼して体重減らさないとなぁ。なんやかんやで現在体重90kg。

6:30-7:00 - walking 6-7km/hr
7:00-7:15 - (push up 20, sit up 20, squat 20) x 4
7:15-7:45 - jogging  8 km/hr
7:45:8:00 - stretch
そしてまた寝る!

明日は参加するトライアスロンシリーズの第一戦があるんだけど(これにはエントリーしてない)、こういう天気(雷雨)だと開催されるのだろか。見に行こうかと思ってたんだけど。

暇なので、回顧録。8

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


まだ交換留学編は続く。長いね。


とにもかくにも、2月は日本に一時帰国しました。留学に少しでも憧れをもったことがある人ならわかると思うけど、なぜか日本の空港に久々についたときの高揚感というのはなんなのでしょうか。「俺、日本に住んでて海外に旅行して帰ってきたんじゃないんだぜ、海外に住んでてちょっと日本に帰ってきてんだぜ」みたいな感じなのでしょうか。でも、それでなんでちょっと自分の等級が上がったような気がしてしまうのでしょう。留学がどれだけ珍しいのっていうとたいしたことないわけで、じゃぁたいしたことない(つまりしてる人なんてくさるほどいる)から絶対的な意味でたいしたことないかっていうときっとそういうわけじゃないのだと思うけど。とにかく、誰もきにしてないョ!と自分で後から突っ込みを入れたくなるくらい、すごい人間に変身したと思ってしまうのです(ちなみに、数回でそういう思いもなくなります)。


他人と比べての優越感・劣等感、という軸からはずれたくてしょうがないんだけど、競争(ようは勝つか負けるか)ではない形で内部から湧き上がるモチベーションをどう生み出すのか、というのがテーマになってきています。流れとして。本筋と外れますが。


えっと、今でも覚えてますが、説明会に行ったのが、住友信託銀行で(これはほんと説明会のみ)、あとはソロモンブラザーズ(ちょうどその頃日興シティ証券になった)の説明会に行きました。結局一次面接に行ったのはソロモンブラザーズだけで、二次面接以降についても、大学の学期が始まってしまうということで、6月に帰国してからやってもらう、ということになりました。留学の授業を休んで就職活動ってやっぱおかしいじゃないですか。


そして、ブリスベンに戻って2学期目をSt Luciaですごすわけですが、流れ的にこの就職活動がどうなったかだけ先に記しておきます。一言で言うと完全になめていたのですが、自分が面接で落とされるわけないんだから、2社以上受ける意味ないと思っていたんですね。これはかなりの度合いで信じてました。ただ、現実には、実はソロモンブラザーズも志望していた部門は既に必要な新卒採用の人数は通常の就職活動時期(少なくとも6月前には当然決まっているわけで、、、)に確保済みで、ようは、よほどたいした奴じゃない限りはとらないわけです。結果から言うと、たいした奴じゃなかったわけですw。


実は、6月に日本に帰って、そこから面接をしてもらい、というかおそらく10回くらい面接をして、部門のヘッドまで面接して(今でも印象に残っているんだけど)、「キミの評価が二分しててねー」という話だったわけです。部門のヘッドとの面接の後で、今度の面接はなんと白人さん。交換留学帰りとはいえ、結局今の英語力(今、というのはこれを書いている現在)よりはるかにShitな英語なわけで、そんな状態で、"what do you think about the deflation in japan"って聞かれても、答えられないわけです。そして死亡フラグが立ちました。一社しか受けないというのは今振り返れば愚かな上、大した傲慢さだなと思いますね。これも、成田空港効果に近いのかもしれません(でも、実際のところは英語は大して話せない、というところから、成田空港効果がいかに実力を反映してないかを物語る)。


ただ、思いやりなのかどうか、という点は別としても、両親は、僕が、よく言えばその世代の「トップ人材が受ける」悪く言えば「流行」ったという理由で受けていた(色々当時理由はこじつけてたけど、実際ははそういうことだったと思う)「いわゆる外資の証券会社」に落とされたということで、少なからずほっとしたような話をしてくれました。実際の仕事内容はよくわからないけど、みんなが行きたい人気の職場が実際に自分に合ってるか合ってないかは別問題なのは確か。まぁ、これ、普通に考えて思いやりだよなwちなみに、大学受験のときも、同じような理由でほっとされている。


というわけで、話はSt Luciaの時代に戻ります。


続く。

Thursday, 13 October 2011

暇なので、回顧録。7

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


St Luciaキャンパスに移ってからは、またしても実はよく憶えてない。


ただ、冷静に考えると、GattonからBrisbaneに移ったとき、St Luciaに行ったんじゃなくて、Miltonに行ったのでした。St Lucia, Miltonは、広域の意味でのBrisbane(Brisbane City Councile)の管轄下でいうところの、地域?(Suburb)です。Miltonにそもそも行ったのは、St Luciaで一緒に住むことになっていたシンガポール人の友人が住んでいた場所が、彼が夏休みに一時帰国する間借りることができたからです。今の家賃のレートから考えると異常ですが、週80ドルでした。Miltonの駅から徒歩5分くらいのところ。やすっ!!


こっちの夏休みは、日本の夏休み同様長くて、11月の半ばか終わりころから2月の終わりまで続きます。てか、暑くて勉強とか無理。せっかく1年しかいないんだし、ということで日本に帰らないつもりだったものだが、暇で暇でしょうがなかった。この頃(St Luciaの授業が始まる前)も意外と色々なストーリーがあった。主に、この時期に日本では就職活動が始まる時期だから。必然的に色々考えるわけです。


まず、日本でもある(たぶん今でも)ように、インターンシップというものをやってみたく思ってました。日本に帰ったらできるかもしれないけど、それよりはこっちの会社で働かせてもらう機会が欲しいと(まぁこれもいたって普通の話なんだけど)。そういうわけで、Gattonにいる頃から、とりあえずResumeを作成して、やたらめったら会社に送りつけてました。唯一返信してくれたのが、Citibank。応募いただいたようなポジションはございません、っていう通知だけだったけど。今振り返れば、そんな丁寧に返信もらっただけでもすごいなと思う。普通しないでしょ??


結局無駄な努力となったわけです。ただ、実はこのあたりが今の仕事につながってきている。次に、こんなことをしてる、と担当の先生(前述の、以前UQで客員教授をやっていた先生)に相談したところ、今の日本人の上司を紹介してくれて、彼と、後に先輩となる日本人の人、もう一人(こっちの日系の会社の社長)とお食事をご一緒させてもらいました。インターン先を紹介してもらう、という目的で。


そのもう一人の方はリゾートオペレーションも行っていて、そこでバイトしてみるか、というお誘いを頂戴したのです。ただ、当時の僕はオフィスワークの経験(ようは日本でコンサルファームとかがやってるようなやつ)をイメージしていたので、またこれはこれで悩んでしまったわけです。今だったらすぐ行ったのに!あぁ、なんてこった。実際、リゾート地まで泊まりにいって、GMにあって話して、みたいなことまでしたわけです。ただ、とにかく自分の心のどこかにひっかかるものがあって、うんうん悩んでたわけです。そのリゾート先であったフランス人の実業家の人に、お前はそんな労働者みたいなことをやる人間じゃない、っと言われて、そうだよな、と思って結局断ったのです。なんかまじ小さい男、、、。それがワタシです。


労働者に対する僕の人間観が出てしまって恥ずかしいのですが、自分が「上」っていう意識があった模様。てか今でもあるのかもしれないし。上下意識・貴賎意識、面白いものだと思います。社会が規定することなのか、自分が規定することなのか、前者の国もあると思うけど、この国では後者だろうね。だから、いい国だなぁと思う。ちょっと脱線してるけど。労働者?の人も、結構お金もらってて(それはそれで問題はあると思うけど-労賃が高すぎる、という点で)、さらにみんなそれぞれがそれぞれで幸せそうに生きてる。あまり、上とか下とか考えてないように見える。見えるだけかもしれないけど、、、。こんなにいちいちDisclaimerつけなくていいですかね。仕事上の癖で、、、。


結果として何もやらず(ダイビングのライセンスを暇つぶしのためにとった以外は)、じゃぁバイトいったらよかったのに、って話なんだけど、とにかく2ヶ月くらいぐだぐだぐだぐだして、その後2月は日本に就職活動しに帰ったのです。


続く。

暇なので、回顧録。6

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)
(だんだん当初設定したカテゴリーに沿って書くことが難しくなってきたけど、本じゃないから問題ないだろう、、、。)


Gatton campusは、慣れてしまえば意外と優雅なもので、車がないとキャンパスの外へ出れないので、基本的に寮の共有ルームみたいなところ(大きいスクリーンがある部屋と、ビリヤード台がある)でぐだぐだしているわけです。なんかいっつもみんな飲んでた気がする。ここで学んだのが、ラムコークです。Bundaberg Rumのコーラ割り(なぜか他の種類のRumは一切みなかった)をしょっちゅう飲んでました。ビールは正直あまり好きでないので、甘くて飲みやすいということもあり、その後も外で飲むときはラムコークが増えました。


あと、この時期かなり体重が増えました。2002年の夏(オーストラリアの冬)にオーストラリアに来たときは70kgくらいだったのに、途中で75kgを突破しました(数ヶ月前に95kgに到達したことを考えると今と比べたら全然ましなんだけど)。


このとき仲良くしてもらったのが(この書き方がまた卑屈なんだが、自分が話す言葉をまともに話せない人と仲良くするって、結構辛抱強くないとできないと思うんだよな)、MA氏とPU氏と日本人の皆様。特にPU氏とはどっかのタイミングでシドニーに一緒に行ったり、車で買い物とかに連れてってもらってたな。あと、GattonからSt Luciaに引っ越してくるときも荷物も一緒に送ってもらった。もう9年くらいあってないから久しぶりに会ってみたいけど現在はDarwinにすんでいるようなので、そのうち、ですな。(これなんかはSection4で取り上げるべきことか)


正直このころ(Gatton Campus)の頃のことはよく憶えてない。インプットを理解できてないんだから、そりゃそうだよね。留学生の数もあとから考えたら(St Luciaキャンパスに移ってから)ものすごい少なくて、キャンパス上で一番英語できなかった自信がある。他の留学生を見てて、発音とかどうでもいいから、とにかく会話できてるひとがうらやましくてしょうがなかった。来る前は1年って長いと思ってたけど、そして1年も海外にいたら、英語ペラペラになるのではとおぼろげに思ってたけど、今でもペラペラとは言う難し。1年なんて言わずもがなです。20過ぎてからだからしょうがないよね。


ただ、そんな英語でしたが、成績はよかった、といかよくなるための努力はした、、、。これは後々まで続くことなんだけど、大学の勉強のいいところの一つとして、がんばったら結果はうそをつかないということ。最先端の研究とかじゃないからね。言葉をちゃんと話せない、理解できない、というところから、見下されないためには、わかりやすく自分が優秀であることを示す必要があると思ってきた(今でもそう思ってるけど)。実際優秀か、頭いいか、とかそういう問題とは別で、「馬鹿だと思われない」というところに努力をした。こう書くと、ひどい卑屈だね。


やっぱり、「日本だったらこんなはずないのに」、っていう思いと、「じゃぁ日本に帰ってちやほやされたいの?(少なくとも高校とか大学の名前を言うと、オー、と言われることが実際問題多いわけです)、違うっしょ」という思いが交差する日々でした。


この一連の悩みとその悩みを解決するための努力も、全てはくだらない劣等感(これはまさしく優劣感の裏返し)からもたらされるものなんだけど、ただ推進力にはなってたわけです。今現在はむしろこういう感情がなくなってきて、何を推進力に使うか、という問題があるわけです。


Gattonキャンパスを後にして、St Luciaのユニット(アパート)でシンガポール人の友達カップルと住むためにBrisbaneに出てきたわけです。Brisbaneがすごく都会に感じたことをよく憶えてます。


続く。


Monday, 10 October 2011

暇なので、回顧録。5


1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)

Gattonキャンパスには当時三つの寮があって、僕はそのうちの一つたしかThynne Aっていうところに住んでました。非オーストラリア人は300くらい中2人。トイレとシャワーは男女共有。他の寮には日本人の人が数人住んでいて、お世話になりました。学期は確か14週間。テスト期間は別だったかな。前述の通り、僕は三つの教科をとっていました。Agribusiness 1, Agribusiness 2, International Tradeです。

初めの二つはどちらも似ていて、農業に関連するビジネスに会いに行って、レポート及びプレゼンテーションを毎週行う、というものです。もう一つはやや普通の強化で、貿易周りの実務とか用語とか、そういう点についてに授業でした。

まず前者について話すと、隔週でバスに乗り込んで会社にいくわけです。Agribusiness 1は地域の農耕具卸しの店とか、個人からマイクロビジネスを、Agribusiness 2では上場会社、小麦粉の会社、
乳業の会社、綿花会社とか諸々です。そこで聞いた話とほかに色々業界のことなどを調べた上で、レポートを書くわけですね。

ここで大変だったのは、結局英語でした。授業内と訪問先でのインタビューが特に。まず、訪問先でのインタビュー、全く意味わからないからメモもとれないわけです。クラスメートにもそのまま当てはまることなのですが、農業従事者の人は傾向としてアクセントが強い。綺麗な英語でも意味わかめさんなのに、がやがやしたインタビューの場面で意味がわかるわけないですね。わかろうとしてた俺、ちょっと偉いと思う一方で、無理なものは無理だよな、と今なら言ってやりたい。結局インタビューのメモは他の人に写させてもらってた。でもそういうにして人と仲良くなっていったんだけど。仲良くなった、ってほどじゃないかな。サッカーとかやるときに呼んでもらったりはした。嬉しいもんだよ。

英語でプレゼンテーション、っていうのも、日本語でもあんまりやったことないのに、という感じです。ちなみに全ての授業で日本人、というか非オーストラリア人は自分一人。これは結構きつい。ぽつーんですよ。外国人に慣れてない人多かったしね。自分が発表したときは、途中から頭真っ白になって、聞いてる人は全く意味がわからなかっただろうな。自分も意味わかんなかったし。でもまぁ今思えば英語よくできない奴が頑張ってるなって程度だったんだろか。恥ずかしかったし今となってはそれこそいい思い出なんだけど、当時は毎日必死でした。でも、日本にいた頃と比べると、これでいいのかよ、ってくらい時間があった。罪悪感すら感じてたよ。

この頃は、優越感と劣等感のハザマについて葛藤するなんて余裕がなくて、(というか劣等感だけか)それはそれで幸せなことでした。

続く。

暇なので、回顧録。4

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)


プーアル茶を飲みすぎたせいか、体は休みたいのに寝れないため、とりあえず書き続けることにした。といいつつ、これをポストするまでには至らないだろうな、、、。


当時まだ成田→ブリスベンの直行便があった。逆に成田→ゴールドコーストのジェットスターなぞなく、結構高かったように思う。飛行機代の話ね。ブリスベンの空港につくと、大学からお迎えの人が着ていた。これって、大学で雇ったバイトみたいな人だったんだろうけど、当然’ガイジン’さんと二人っきりで車中なわけですよ。何話してたかまるで覚えてないす。てか、たぶんがんばったけっかほとんど会話になんなかったんだろうな。


ブリスベンの空港からほぼブリスベンの市街地を素通りする形で、片田舎のGattonというUQの農学系の学部用のキャンパスに行ったので、Gattonで受けたショックのほうが記憶には鮮やかなのですが、一方、土地勘もある今なら場所がわかる、たとえばHamiltonとか、空港からブリスベンに向かう途中の景色がきれいだったのはよく覚えてる。日本の夏からブリスベンの冬にきたわけだけど、空気のにおいがちがったことも覚えてる。今でもこっち戻ってきたとき思うけどね。植物のせいか温度とか湿度のせいか、それとも人がする料理のにおいなのかわからないけど、土地ごとに独特のにおいってあるよね。慣れるまでは、そんなのがHome Sickの原因になったりするんじゃないかなんて思ったりする。


Gattonは前述のとおりUQの農学系の学科の授業が主に行われるキャンパスで(たぶん)、日本で農学部に所属していた僕は、特に何も考えずこのキャンパスに行くことにしたのであった。日本の大学は一学期あたりものすごい数の授業をとるけど、こっちは普通4教科で、ビザの関係上、最低3教科はとらないといけない、という感じだった。これはたぶん今でもそう。なんたらの学科の教授に会いにいって、どの教科をとるか相談とかして、薦められるがままにいくつかの授業を選んだ。Agribusiness 1, Agribusiness 2とInternational Tradeかそんな感じだったと思う。


ただ、授業を選ぶ、とかそういうのの前に問題があった。Gattonでは、キャンパス内にある寮に住むことになっていたんだけど、特に理由もなく、授業が始まる直前に行くのはやだなぁと思っていたので、1週間くらい前につく様にいった。それがとにかく問題。そもそも牢獄のような寮に、誰もいない、星空きれい、牛モーモー言ってる、という状態。学期が始まるまで食堂は開かないし、食べ物はあるってきいたけど、言われた場所にいったら何もないし(ただし、このあたりは英語力的に何か僕が勘違いしていた可能性は大いにあるのですが)、とぼとぼ30分くらい歩いて一番近くにあるマクドナルドでチキンナゲットかって食べたた。毎日。チキンナゲットを注文してた理由も、発音しやすいのと、マヨネーズ抜きにしてとかセットの詳細を言う(ジュース何にする、とかそういうのも含め)、とか言うのが面倒(ってかちょっと怖いというか、初めて海外いったときのことわかる人おおいでしょ?)、とかそんなチキンな理由です。


一度泣きました。あと、なんとかして電話がかけられるようになったあと、人と話して、もう一度。一人でがんばろう、って気を張ってたのが崩れて涙がでてきた。俺、英語通じないかもしれないけど、とにかく誰か人間がいて欲しいってそのときすごいおもったのを覚えてる。全然話違うけど、大学2年生のとき苫小牧から仙台までフェリーで行ったことがあって、そのときの海の怖さに似てるかな。夜の海ってまじ怖い。


あと、初めてキャンパス上で人に話しかけられたとき、何言ってるかまったくわからなかった。How are ya going mate?って言ってたんだと思う。てか、わかんないよ。きっと。アメリカ人もさ。だから、今の僕の英語も、きっと日本で英語を学んだ人にはとてもわかりづらいと思う(それを裏付ける実体験もあり)。


続く。



暇なので、回顧録。3


1.2.大学3年-4年半ば(交換留学前)(続き)

無事奨学金をもらえることになったものの、留学するには、留学先から入学許可書?のようなものをもらわなければならぬ、と判明。そして英語もある程度点数をとらねばならぬ、と。当時のTOEFLで、677点中550点とる必要がありました。この辺、正直よく覚えてはいないものの、色々ありました。

まず、大学に提出する必要がある書類。当たり前だけど全部英語だし、チェックしてくれる人もいない。質問する必要があって、初めて実家の電話からUQに電話したときは、なんか結局わけわかんなかった気がします。そして緊張した。郵送するにしても、なくなったら大変だ、ということでFedexにもっていったら、この住所じゃだめです、と。大学の住所って特に番地とかなくて(なぜなら大学自体が住所だから)、それが駄目だったらしい。結局郵便局から送って事なきを得たけど、今思うと、Fedexはいまいちだった。でも、確実に送れないと思う場合Noという姿勢、間違ってはいないとも思います。

英語の勉強も結構しんどかった。550点っていうのがどれくらい難しいか、ていうと正直よくわからないんだけど、参考書とか買ってよく勉強したな。電車の中でもぶつぶつ勉強してたし、友達から教えてもらった問題集?特にこれ(http://www.beret.co.jp/books/detail/?book_id=7)は重宝しました。O谷くん、キミだよ教えてくれたのは。当時そんなわけでよく英語勉強してました。実家がともに埼玉だったY岡君とはよく一緒にジョナサンとかミスドとかスターバックスとかで恥ずかしげもなく声出して勉強してたな。よく英語を使うためだけに六本木に繰り出したりしてたね。帰れなくなって、大学に戻って寝てたりもしたな。完全ドメ出身の僕らだけど、日本で働いている彼も今は英語問題なく日常的に仕事で使っている。実際のところどの程度役にたったかわからないけど、役に立ったと信じることにしている。楽しかったしね。

初めてのTOEFLはニューヨークで受けました。確か大学3年のクリスマス。緊張して血尿でたよ。ニューヨークには友達がいて、そこに泊まったんだけど、それもNYCじゃなくて旅行者もほとんどいない街だったから、いちいちどきどきしてたな、、、。海外に行くのが初めてだったわけじゃないんだけど(ていっても確かこれが2回目)、やっぱり英語コンプレックスがなせるわざか、アメリカにいるっていう実感だけでどきどきしたよ。普通の住宅地を歩いたり、チャイニーズの店で持ち帰りのなんかを買うだけでも、ほんとどきどきした。一人でバスのるのも、どきどきした。NYCにもちょっと行って、ミュージカルとか見た。何言ってるかまったくわかんなかったけど(今言ってもわかんないかもしれないけどね)。とにかくどきどきしっぱなしだった。

実は一回目のTOEFLの点数はいまいちで、520点くらいだったんだね(実際にはCBTだったから、よく覚えてない)。日本の帰国してもう一度受けたら、無事に600点くらいとれて、英語は無事クリア。あとはビザ関連とか、その他の手配(寮の手配とか)も含めて無事終わって(たぶん)、出国の日がきました。飛行機にのって、1年日本に帰らないんだなぁと思ってしみじみしながら緊張感を高まらせてたのはいまだに覚えてる。1年と思ってたのが結果的に8年以上になっちゃってるんだけど、、、。

Sunday, 9 October 2011

暇なので、回顧録。2

1.2.大学3年-4年半ば(交換留学前)

大学3年から学部の専門にうつるわけだけど、大学1,2年の時の成績でどういう学部・学科に行きたいか決められるわけです。今思うと恐ろしいくらい1,2年のとき何も考えてなかったかよくわかる。普通何を勉強したいとか、将来どうなりたいとか、そいういうの考えるでしょ。ただ単にいける学科の中から選らんだだけ、それが農業経済(厳密には農業構造経済学科、だったかな)。これまた結果から言うと、この動きがあったから今の人生があるわけなんだけど、だからといって、それがいい動きだったかどうだったか、というのは別の話。そうじゃなかったら、という選択肢の結果はしらないのだから。そんなことを考えてみるのは面白いかもしれない一方であまり意味はないよな。意味がないってどういうとか、っていうと、だから今とか将来とるべきアクションに影響を及ぼさないという思う、ということ。

とにかく、大学3年になって、理由はわからないんだけど、まずはまじめに勉強してみよう、と決意しました。本当に理由は覚えてない。たぶん、1,2年を無駄に過ごした、という自覚があって、何かしようと思ったんだけど、何をしていいかわからなかったんだと思います。仲良かった友人(過去形なのは死んでしまったから)は、自分と一緒にぐうたらしていたはずだったのに、当時イケイケだったOn the edge(後のライブドア)で働いていて、がんがん稼いでたし(確か同じ時期に休学して、ライブドアの部長までやってた)、高校から直接アメリカの大学に行った友人は、アメリカの中でもいわゆる有名な大学に編入したり、自分が置いていかれた、という感覚があったんだと思う。ちなみに、今でも置いていかれている、という感覚はあります。

そういうわけで、とりあえず授業には全部出て、しかも一番前の席に座って、積極的に発言して、もろもろの活動にも参加して、テストの勉強もちゃんとやってみたのが、大学3年でした。勉強は楽しかった。成績もよかった、というのもあるけれど、物事に積極的にかかわることで、同じことが面白く感じたりする、と実感できたのはよかったな。あと、自分がアクションを起こすと、何か変わる、面白いことがおこる、っていう風に思えるようになってきたのもこのころです。このあたりから人生が変わってきた、という実感はあります(ただしここ数年は特にアクションをとってない、という実感もあり)。

何を実際にやったか、というとたいしたことはやってないんだけど、たとえば実習(最近放射線関連でよく話題に上る飯舘村における農村調査)に積極的に関与する、とか地域インターンシップでまた他の農村(山梨県早川町)に行ったりするとか。

これを後押しする形で、確か、大学3年の夏だったと記憶してるんだけど(暑かったような記憶があるから)、高校から直接アメリカの大学に行った友人と連絡をとっていて、その友人でアメリカに行っている友人と知り合う機会があった。当時僕は(おそらく前述のPromにおける最悪?の体験から)、英語に対するコンプレックスがあって、とにかく誰かが英語ができる、というだけでものすごい劣等感を感じたし、親には文句言ったし(失礼な話なんですが)、なんで自分は英語環境で勉強する機会を小さいころ得ることができなかったんだろう、と悔しく思っていました。英語っていうところが、ややIssueの定義の仕方が矮小すぎる気はするんですが、当時はとにかくその’特定の点’について思っていたわけ。留学してみたい、ってすごい思っていました。高校生のころ、推薦でPrincetonいける、って掲示板に書いてあったなー。なんで行かなかったのかなーとか思っていたのがこの頃でした。ちなみに、時期は前後しますが(正直よく覚えてない)、英語圏の大学・大学院に行きたいなら成績はある程度いい成績をとっておいたほうがいい、という話をきいたのもまじめに勉強する、というの姿勢を裏づけたように覚えてます。

留学するにはお金が必要だし、そんなお金はない、ということで、大学の留学課みたいなところにいって、奨学金がもらえるかきいたら、ある、って言われて、名前かいてきたんですね。ゼミの担当教官だった先生も賛成してくれました。実は一回その奨学金がもらえない、という通知がきて、まぁしょうがないかな、と思ってたんですが(名前書いただけだし)、ある日その先生が興奮して僕に会いにきてくれて、おい、奨学金もらえることになったぞ、と。それで留学することになりました。

当時は当然アメリカかUKに留学いくものだと思っていたんですが、奨学金の性質上、環太平洋の大学にしかいけず、英語圏の大学がクイーンズランド大学(UQ)だけだったのです。正直乗り気じゃなかったんですが、実はその担当教官だった先生はUQで数年前に客員教授をやっていたこともあり、薦められてUQに行くことになったわけです。それまでオーストラリアに行く気もなかったですし、ブリスベンなんて聞いたこともしらなかったんですが、そこで初めてオーストラリアと縁ができたわけです。行くと決まってから、また長い話になります。

続く。

暇なので、回顧録。

暇なのでブログでも書いてみようかと思うにいたる。

はじめてオーストラリアにきたのが2002年の7月だから、そこから9年以上の月日がたっている。2003年6月から2004年4月まで日本にいた期間を考えても、まる8年以上をオーストラリア、しかもブリスベンのみで過ごしていることになる。この辺は自分でもよく振り返るStats.

ここ10年の話を総括すると、非常に端的にまとめることが可能な気がする。あまりたいしたことやってないからね。先細り感が出てくることを恐れずにまとめてみようと思う。けじめだな。そもそもこのブログ公開されてたか覚えてないけど、確か公開されてたかな。まぁなんでもいいや。

軸の数はそんなに多くない。

1.仕事・勉強
2.家族・夫婦
3.健康・運動
4.友達・ネットワーク

それぞれ完全に別項目ではないけど、そんなに間違っていない分類に思える。

得意の徒然で振り返ってみよう。

1.仕事・勉強

1.1大学入学、1・2年

自分にとって最後のまともな入学式が武道館であって、クラスに女の子がいて、一応最高学府の学生になったわけだ。高校のころと社会的ポジションは変わらないんだけど、それがReinforceされたんだな。俺はトップになる男、みたいな。悪いことじゃないんだろうけど、いまいちどういう枠組みで’トップ’とか’優れてる’とかは考えてなかったね。今でも考えてないけど。小学校で足が速い奴がなんかすごい、みたいになるのと同レベル。外部に対するアウトプットで評価される段階にいたる以前は、こんなのものなのかもしれない。

大学生になるまでアルバイトというものをしたことがなかった。大学生になって、いくつかのアルバイトをした。ドラッグストア店員、リテール売り場店員、居酒屋店員、家庭教師など。なぜこういうアルバイトをしてみたかというと、ただ単に今までやったこがないことをしてみたかった。小金が欲しかった。その程度の理由。今思えば、どのアルバイトにしても、どこかなめていたと思う。恥ずかしい話なんだけど、どこか同じ場所にいる人たちと比べて自分が優れていると感じていた。まわりもそういう風に扱ってくるしね。結果から言うと、それぞれの職場でなにか取り立てて実績を出したわけじゃないし、なんかおかしい話なんだ。

一方で、優越感と裏返しで、劣等感も大きく感じていた。今でもよく覚えているのだけど、高校の友人の友人がアメリカンスクールに通っていて、その縁でアメリカンスクールの卒業パーティ(Prom)に行く機会があったんだけど、ひどい卑屈な気分になった。会場は椿山荘で、おぼろげに見たことがあった“ビバヒル”みたいに“ガイジン”がいっぱいいて、日本なのにみんな英語を話していた。年下なはずなのに、みんな年上に見えた。二次会が下北沢のクラブであって、そのときまで下北沢もクラブも行ったことなくて、さらに英語は話せないし、なにやっていいかわからなかった。みんなが楽しそうにしている中、大学生に入って吸い始めたタバコをフカシ続けながら、”あまり話さなくても楽しい人”ぶってすかしてた。受験で英語の勉強して、それでちゃんと大学に受かって、それでこのざまでした。つらかった。

大学に入ってからの2年間は、ちゃんと勉強した記憶がない。数学とか物理をまともに勉強する最後の機会だったんだけどね。今振り返ると。テストの前に一夜漬けでなんとかしたり、たまになんとかなんなくて友達に前日に教えてもらったりしてた。むしろ、初めて彼女ができたとか、渋谷とか代官山にやけに詳しくなったという話です。かっこいいからそうしてた、とかいうことはないんだけど、いわゆる燃えつき症候群だったのかもしれないし、大学入ってから何かをしたいとかなかったもんね。農学部には行きたいとおもってたけど、はじめの2年間は教養学部だったし、日本の雇用者はうちの大学だったら、その中での成績が就職活動に影響を及ぼすとも思ってなかったし、そもそもおぼろげに研究者になると思ってたけど、それも確固たるものではなかったわけで。初めて彼女という存在がいる、ということにうきうきしたり、別れたりしてへこんだり、都内に住んでる高校の友人の家に入り浸ったり、深夜オールでカラオケいったり、国内の貧乏旅行いったり、小説とかにでてくるようなモノトリアムな生活を実践してみたかっただけ、という時代だったんだな。贅沢な話。結果から言うと、この時代にみんながやるようなことをやってただけなんだけど、それでも個人レベルでみたらよかったなとも思ってる。一人で四国の電車にのりながら、村上春樹の小説読んでたときが、この時代のハイライトだった気がする。自分に酔ってたんだな。

続く。