暇なのでブログでも書いてみようかと思うにいたる。
はじめてオーストラリアにきたのが2002年の7月だから、そこから9年以上の月日がたっている。2003年6月から2004年4月まで日本にいた期間を考えても、まる8年以上をオーストラリア、しかもブリスベンのみで過ごしていることになる。この辺は自分でもよく振り返るStats.
ここ10年の話を総括すると、非常に端的にまとめることが可能な気がする。あまりたいしたことやってないからね。先細り感が出てくることを恐れずにまとめてみようと思う。けじめだな。そもそもこのブログ公開されてたか覚えてないけど、確か公開されてたかな。まぁなんでもいいや。
軸の数はそんなに多くない。
1.仕事・勉強
2.家族・夫婦
3.健康・運動
4.友達・ネットワーク
それぞれ完全に別項目ではないけど、そんなに間違っていない分類に思える。
得意の徒然で振り返ってみよう。
1.仕事・勉強
1.1大学入学、1・2年
自分にとって最後のまともな入学式が武道館であって、クラスに女の子がいて、一応最高学府の学生になったわけだ。高校のころと社会的ポジションは変わらないんだけど、それがReinforceされたんだな。俺はトップになる男、みたいな。悪いことじゃないんだろうけど、いまいちどういう枠組みで’トップ’とか’優れてる’とかは考えてなかったね。今でも考えてないけど。小学校で足が速い奴がなんかすごい、みたいになるのと同レベル。外部に対するアウトプットで評価される段階にいたる以前は、こんなのものなのかもしれない。
大学生になるまでアルバイトというものをしたことがなかった。大学生になって、いくつかのアルバイトをした。ドラッグストア店員、リテール売り場店員、居酒屋店員、家庭教師など。なぜこういうアルバイトをしてみたかというと、ただ単に今までやったこがないことをしてみたかった。小金が欲しかった。その程度の理由。今思えば、どのアルバイトにしても、どこかなめていたと思う。恥ずかしい話なんだけど、どこか同じ場所にいる人たちと比べて自分が優れていると感じていた。まわりもそういう風に扱ってくるしね。結果から言うと、それぞれの職場でなにか取り立てて実績を出したわけじゃないし、なんかおかしい話なんだ。
一方で、優越感と裏返しで、劣等感も大きく感じていた。今でもよく覚えているのだけど、高校の友人の友人がアメリカンスクールに通っていて、その縁でアメリカンスクールの卒業パーティ(Prom)に行く機会があったんだけど、ひどい卑屈な気分になった。会場は椿山荘で、おぼろげに見たことがあった“ビバヒル”みたいに“ガイジン”がいっぱいいて、日本なのにみんな英語を話していた。年下なはずなのに、みんな年上に見えた。二次会が下北沢のクラブであって、そのときまで下北沢もクラブも行ったことなくて、さらに英語は話せないし、なにやっていいかわからなかった。みんなが楽しそうにしている中、大学生に入って吸い始めたタバコをフカシ続けながら、”あまり話さなくても楽しい人”ぶってすかしてた。受験で英語の勉強して、それでちゃんと大学に受かって、それでこのざまでした。つらかった。
大学に入ってからの2年間は、ちゃんと勉強した記憶がない。数学とか物理をまともに勉強する最後の機会だったんだけどね。今振り返ると。テストの前に一夜漬けでなんとかしたり、たまになんとかなんなくて友達に前日に教えてもらったりしてた。むしろ、初めて彼女ができたとか、渋谷とか代官山にやけに詳しくなったという話です。かっこいいからそうしてた、とかいうことはないんだけど、いわゆる燃えつき症候群だったのかもしれないし、大学入ってから何かをしたいとかなかったもんね。農学部には行きたいとおもってたけど、はじめの2年間は教養学部だったし、日本の雇用者はうちの大学だったら、その中での成績が就職活動に影響を及ぼすとも思ってなかったし、そもそもおぼろげに研究者になると思ってたけど、それも確固たるものではなかったわけで。初めて彼女という存在がいる、ということにうきうきしたり、別れたりしてへこんだり、都内に住んでる高校の友人の家に入り浸ったり、深夜オールでカラオケいったり、国内の貧乏旅行いったり、小説とかにでてくるようなモノトリアムな生活を実践してみたかっただけ、という時代だったんだな。贅沢な話。結果から言うと、この時代にみんながやるようなことをやってただけなんだけど、それでも個人レベルでみたらよかったなとも思ってる。一人で四国の電車にのりながら、村上春樹の小説読んでたときが、この時代のハイライトだった気がする。自分に酔ってたんだな。
続く。
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