1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)
St Luciaキャンパスに移ってからは、またしても実はよく憶えてない。
ただ、冷静に考えると、GattonからBrisbaneに移ったとき、St Luciaに行ったんじゃなくて、Miltonに行ったのでした。St Lucia, Miltonは、広域の意味でのBrisbane(Brisbane City Councile)の管轄下でいうところの、地域?(Suburb)です。Miltonにそもそも行ったのは、St Luciaで一緒に住むことになっていたシンガポール人の友人が住んでいた場所が、彼が夏休みに一時帰国する間借りることができたからです。今の家賃のレートから考えると異常ですが、週80ドルでした。Miltonの駅から徒歩5分くらいのところ。やすっ!!
こっちの夏休みは、日本の夏休み同様長くて、11月の半ばか終わりころから2月の終わりまで続きます。てか、暑くて勉強とか無理。せっかく1年しかいないんだし、ということで日本に帰らないつもりだったものだが、暇で暇でしょうがなかった。この頃(St Luciaの授業が始まる前)も意外と色々なストーリーがあった。主に、この時期に日本では就職活動が始まる時期だから。必然的に色々考えるわけです。
まず、日本でもある(たぶん今でも)ように、インターンシップというものをやってみたく思ってました。日本に帰ったらできるかもしれないけど、それよりはこっちの会社で働かせてもらう機会が欲しいと(まぁこれもいたって普通の話なんだけど)。そういうわけで、Gattonにいる頃から、とりあえずResumeを作成して、やたらめったら会社に送りつけてました。唯一返信してくれたのが、Citibank。応募いただいたようなポジションはございません、っていう通知だけだったけど。今振り返れば、そんな丁寧に返信もらっただけでもすごいなと思う。普通しないでしょ??
結局無駄な努力となったわけです。ただ、実はこのあたりが今の仕事につながってきている。次に、こんなことをしてる、と担当の先生(前述の、以前UQで客員教授をやっていた先生)に相談したところ、今の日本人の上司を紹介してくれて、彼と、後に先輩となる日本人の人、もう一人(こっちの日系の会社の社長)とお食事をご一緒させてもらいました。インターン先を紹介してもらう、という目的で。
そのもう一人の方はリゾートオペレーションも行っていて、そこでバイトしてみるか、というお誘いを頂戴したのです。ただ、当時の僕はオフィスワークの経験(ようは日本でコンサルファームとかがやってるようなやつ)をイメージしていたので、またこれはこれで悩んでしまったわけです。今だったらすぐ行ったのに!あぁ、なんてこった。実際、リゾート地まで泊まりにいって、GMにあって話して、みたいなことまでしたわけです。ただ、とにかく自分の心のどこかにひっかかるものがあって、うんうん悩んでたわけです。そのリゾート先であったフランス人の実業家の人に、お前はそんな労働者みたいなことをやる人間じゃない、っと言われて、そうだよな、と思って結局断ったのです。なんかまじ小さい男、、、。それがワタシです。
労働者に対する僕の人間観が出てしまって恥ずかしいのですが、自分が「上」っていう意識があった模様。てか今でもあるのかもしれないし。上下意識・貴賎意識、面白いものだと思います。社会が規定することなのか、自分が規定することなのか、前者の国もあると思うけど、この国では後者だろうね。だから、いい国だなぁと思う。ちょっと脱線してるけど。労働者?の人も、結構お金もらってて(それはそれで問題はあると思うけど-労賃が高すぎる、という点で)、さらにみんなそれぞれがそれぞれで幸せそうに生きてる。あまり、上とか下とか考えてないように見える。見えるだけかもしれないけど、、、。こんなにいちいちDisclaimerつけなくていいですかね。仕事上の癖で、、、。
結果として何もやらず(ダイビングのライセンスを暇つぶしのためにとった以外は)、じゃぁバイトいったらよかったのに、って話なんだけど、とにかく2ヶ月くらいぐだぐだぐだぐだして、その後2月は日本に就職活動しに帰ったのです。
続く。
Thursday, 13 October 2011
暇なので、回顧録。6
1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)
(だんだん当初設定したカテゴリーに沿って書くことが難しくなってきたけど、本じゃないから問題ないだろう、、、。)
Gatton campusは、慣れてしまえば意外と優雅なもので、車がないとキャンパスの外へ出れないので、基本的に寮の共有ルームみたいなところ(大きいスクリーンがある部屋と、ビリヤード台がある)でぐだぐだしているわけです。なんかいっつもみんな飲んでた気がする。ここで学んだのが、ラムコークです。Bundaberg Rumのコーラ割り(なぜか他の種類のRumは一切みなかった)をしょっちゅう飲んでました。ビールは正直あまり好きでないので、甘くて飲みやすいということもあり、その後も外で飲むときはラムコークが増えました。
あと、この時期かなり体重が増えました。2002年の夏(オーストラリアの冬)にオーストラリアに来たときは70kgくらいだったのに、途中で75kgを突破しました(数ヶ月前に95kgに到達したことを考えると今と比べたら全然ましなんだけど)。
このとき仲良くしてもらったのが(この書き方がまた卑屈なんだが、自分が話す言葉をまともに話せない人と仲良くするって、結構辛抱強くないとできないと思うんだよな)、MA氏とPU氏と日本人の皆様。特にPU氏とはどっかのタイミングでシドニーに一緒に行ったり、車で買い物とかに連れてってもらってたな。あと、GattonからSt Luciaに引っ越してくるときも荷物も一緒に送ってもらった。もう9年くらいあってないから久しぶりに会ってみたいけど現在はDarwinにすんでいるようなので、そのうち、ですな。(これなんかはSection4で取り上げるべきことか)
正直このころ(Gatton Campus)の頃のことはよく憶えてない。インプットを理解できてないんだから、そりゃそうだよね。留学生の数もあとから考えたら(St Luciaキャンパスに移ってから)ものすごい少なくて、キャンパス上で一番英語できなかった自信がある。他の留学生を見てて、発音とかどうでもいいから、とにかく会話できてるひとがうらやましくてしょうがなかった。来る前は1年って長いと思ってたけど、そして1年も海外にいたら、英語ペラペラになるのではとおぼろげに思ってたけど、今でもペラペラとは言う難し。1年なんて言わずもがなです。20過ぎてからだからしょうがないよね。
ただ、そんな英語でしたが、成績はよかった、といかよくなるための努力はした、、、。これは後々まで続くことなんだけど、大学の勉強のいいところの一つとして、がんばったら結果はうそをつかないということ。最先端の研究とかじゃないからね。言葉をちゃんと話せない、理解できない、というところから、見下されないためには、わかりやすく自分が優秀であることを示す必要があると思ってきた(今でもそう思ってるけど)。実際優秀か、頭いいか、とかそういう問題とは別で、「馬鹿だと思われない」というところに努力をした。こう書くと、ひどい卑屈だね。
やっぱり、「日本だったらこんなはずないのに」、っていう思いと、「じゃぁ日本に帰ってちやほやされたいの?(少なくとも高校とか大学の名前を言うと、オー、と言われることが実際問題多いわけです)、違うっしょ」という思いが交差する日々でした。
この一連の悩みとその悩みを解決するための努力も、全てはくだらない劣等感(これはまさしく優劣感の裏返し)からもたらされるものなんだけど、ただ推進力にはなってたわけです。今現在はむしろこういう感情がなくなってきて、何を推進力に使うか、という問題があるわけです。
Gattonキャンパスを後にして、St Luciaのユニット(アパート)でシンガポール人の友達カップルと住むためにBrisbaneに出てきたわけです。Brisbaneがすごく都会に感じたことをよく憶えてます。
続く。
(だんだん当初設定したカテゴリーに沿って書くことが難しくなってきたけど、本じゃないから問題ないだろう、、、。)
Gatton campusは、慣れてしまえば意外と優雅なもので、車がないとキャンパスの外へ出れないので、基本的に寮の共有ルームみたいなところ(大きいスクリーンがある部屋と、ビリヤード台がある)でぐだぐだしているわけです。なんかいっつもみんな飲んでた気がする。ここで学んだのが、ラムコークです。Bundaberg Rumのコーラ割り(なぜか他の種類のRumは一切みなかった)をしょっちゅう飲んでました。ビールは正直あまり好きでないので、甘くて飲みやすいということもあり、その後も外で飲むときはラムコークが増えました。
あと、この時期かなり体重が増えました。2002年の夏(オーストラリアの冬)にオーストラリアに来たときは70kgくらいだったのに、途中で75kgを突破しました(数ヶ月前に95kgに到達したことを考えると今と比べたら全然ましなんだけど)。
このとき仲良くしてもらったのが(この書き方がまた卑屈なんだが、自分が話す言葉をまともに話せない人と仲良くするって、結構辛抱強くないとできないと思うんだよな)、MA氏とPU氏と日本人の皆様。特にPU氏とはどっかのタイミングでシドニーに一緒に行ったり、車で買い物とかに連れてってもらってたな。あと、GattonからSt Luciaに引っ越してくるときも荷物も一緒に送ってもらった。もう9年くらいあってないから久しぶりに会ってみたいけど現在はDarwinにすんでいるようなので、そのうち、ですな。(これなんかはSection4で取り上げるべきことか)
正直このころ(Gatton Campus)の頃のことはよく憶えてない。インプットを理解できてないんだから、そりゃそうだよね。留学生の数もあとから考えたら(St Luciaキャンパスに移ってから)ものすごい少なくて、キャンパス上で一番英語できなかった自信がある。他の留学生を見てて、発音とかどうでもいいから、とにかく会話できてるひとがうらやましくてしょうがなかった。来る前は1年って長いと思ってたけど、そして1年も海外にいたら、英語ペラペラになるのではとおぼろげに思ってたけど、今でもペラペラとは言う難し。1年なんて言わずもがなです。20過ぎてからだからしょうがないよね。
ただ、そんな英語でしたが、成績はよかった、といかよくなるための努力はした、、、。これは後々まで続くことなんだけど、大学の勉強のいいところの一つとして、がんばったら結果はうそをつかないということ。最先端の研究とかじゃないからね。言葉をちゃんと話せない、理解できない、というところから、見下されないためには、わかりやすく自分が優秀であることを示す必要があると思ってきた(今でもそう思ってるけど)。実際優秀か、頭いいか、とかそういう問題とは別で、「馬鹿だと思われない」というところに努力をした。こう書くと、ひどい卑屈だね。
やっぱり、「日本だったらこんなはずないのに」、っていう思いと、「じゃぁ日本に帰ってちやほやされたいの?(少なくとも高校とか大学の名前を言うと、オー、と言われることが実際問題多いわけです)、違うっしょ」という思いが交差する日々でした。
この一連の悩みとその悩みを解決するための努力も、全てはくだらない劣等感(これはまさしく優劣感の裏返し)からもたらされるものなんだけど、ただ推進力にはなってたわけです。今現在はむしろこういう感情がなくなってきて、何を推進力に使うか、という問題があるわけです。
Gattonキャンパスを後にして、St Luciaのユニット(アパート)でシンガポール人の友達カップルと住むためにBrisbaneに出てきたわけです。Brisbaneがすごく都会に感じたことをよく憶えてます。
続く。
Monday, 10 October 2011
暇なので、回顧録。5
1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)
Gattonキャンパスには当時三つの寮があって、
初めの二つはどちらも似ていて、
まず前者について話すと、
乳業の会社、綿花会社とか諸々です。
ここで大変だったのは、結局英語でした。
英語でプレゼンテーション、っていうのも、
この頃は、優越感と劣等感のハザマについて葛藤するなんて余裕がなくて、(というか劣等感だけか)それはそれで幸せなことでした。
続く。
暇なので、回顧録。4
1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)
プーアル茶を飲みすぎたせいか、体は休みたいのに寝れないため、とりあえず書き続けることにした。といいつつ、これをポストするまでには至らないだろうな、、、。
当時まだ成田→ブリスベンの直行便があった。逆に成田→ゴールドコーストのジェットスターなぞなく、結構高かったように思う。飛行機代の話ね。ブリスベンの空港につくと、大学からお迎えの人が着ていた。これって、大学で雇ったバイトみたいな人だったんだろうけど、当然’ガイジン’さんと二人っきりで車中なわけですよ。何話してたかまるで覚えてないす。てか、たぶんがんばったけっかほとんど会話になんなかったんだろうな。
ブリスベンの空港からほぼブリスベンの市街地を素通りする形で、片田舎のGattonというUQの農学系の学部用のキャンパスに行ったので、Gattonで受けたショックのほうが記憶には鮮やかなのですが、一方、土地勘もある今なら場所がわかる、たとえばHamiltonとか、空港からブリスベンに向かう途中の景色がきれいだったのはよく覚えてる。日本の夏からブリスベンの冬にきたわけだけど、空気のにおいがちがったことも覚えてる。今でもこっち戻ってきたとき思うけどね。植物のせいか温度とか湿度のせいか、それとも人がする料理のにおいなのかわからないけど、土地ごとに独特のにおいってあるよね。慣れるまでは、そんなのがHome Sickの原因になったりするんじゃないかなんて思ったりする。
Gattonは前述のとおりUQの農学系の学科の授業が主に行われるキャンパスで(たぶん)、日本で農学部に所属していた僕は、特に何も考えずこのキャンパスに行くことにしたのであった。日本の大学は一学期あたりものすごい数の授業をとるけど、こっちは普通4教科で、ビザの関係上、最低3教科はとらないといけない、という感じだった。これはたぶん今でもそう。なんたらの学科の教授に会いにいって、どの教科をとるか相談とかして、薦められるがままにいくつかの授業を選んだ。Agribusiness 1, Agribusiness 2とInternational Tradeかそんな感じだったと思う。
ただ、授業を選ぶ、とかそういうのの前に問題があった。Gattonでは、キャンパス内にある寮に住むことになっていたんだけど、特に理由もなく、授業が始まる直前に行くのはやだなぁと思っていたので、1週間くらい前につく様にいった。それがとにかく問題。そもそも牢獄のような寮に、誰もいない、星空きれい、牛モーモー言ってる、という状態。学期が始まるまで食堂は開かないし、食べ物はあるってきいたけど、言われた場所にいったら何もないし(ただし、このあたりは英語力的に何か僕が勘違いしていた可能性は大いにあるのですが)、とぼとぼ30分くらい歩いて一番近くにあるマクドナルドでチキンナゲットかって食べたた。毎日。チキンナゲットを注文してた理由も、発音しやすいのと、マヨネーズ抜きにしてとかセットの詳細を言う(ジュース何にする、とかそういうのも含め)、とか言うのが面倒(ってかちょっと怖いというか、初めて海外いったときのことわかる人おおいでしょ?)、とかそんなチキンな理由です。
一度泣きました。あと、なんとかして電話がかけられるようになったあと、人と話して、もう一度。一人でがんばろう、って気を張ってたのが崩れて涙がでてきた。俺、英語通じないかもしれないけど、とにかく誰か人間がいて欲しいってそのときすごいおもったのを覚えてる。全然話違うけど、大学2年生のとき苫小牧から仙台までフェリーで行ったことがあって、そのときの海の怖さに似てるかな。夜の海ってまじ怖い。
あと、初めてキャンパス上で人に話しかけられたとき、何言ってるかまったくわからなかった。How are ya going mate?って言ってたんだと思う。てか、わかんないよ。きっと。アメリカ人もさ。だから、今の僕の英語も、きっと日本で英語を学んだ人にはとてもわかりづらいと思う(それを裏付ける実体験もあり)。
続く。
プーアル茶を飲みすぎたせいか、体は休みたいのに寝れないため、とりあえず書き続けることにした。といいつつ、これをポストするまでには至らないだろうな、、、。
当時まだ成田→ブリスベンの直行便があった。逆に成田→ゴールドコーストのジェットスターなぞなく、結構高かったように思う。飛行機代の話ね。ブリスベンの空港につくと、大学からお迎えの人が着ていた。これって、大学で雇ったバイトみたいな人だったんだろうけど、当然’ガイジン’さんと二人っきりで車中なわけですよ。何話してたかまるで覚えてないす。てか、たぶんがんばったけっかほとんど会話になんなかったんだろうな。
ブリスベンの空港からほぼブリスベンの市街地を素通りする形で、片田舎のGattonというUQの農学系の学部用のキャンパスに行ったので、Gattonで受けたショックのほうが記憶には鮮やかなのですが、一方、土地勘もある今なら場所がわかる、たとえばHamiltonとか、空港からブリスベンに向かう途中の景色がきれいだったのはよく覚えてる。日本の夏からブリスベンの冬にきたわけだけど、空気のにおいがちがったことも覚えてる。今でもこっち戻ってきたとき思うけどね。植物のせいか温度とか湿度のせいか、それとも人がする料理のにおいなのかわからないけど、土地ごとに独特のにおいってあるよね。慣れるまでは、そんなのがHome Sickの原因になったりするんじゃないかなんて思ったりする。
Gattonは前述のとおりUQの農学系の学科の授業が主に行われるキャンパスで(たぶん)、日本で農学部に所属していた僕は、特に何も考えずこのキャンパスに行くことにしたのであった。日本の大学は一学期あたりものすごい数の授業をとるけど、こっちは普通4教科で、ビザの関係上、最低3教科はとらないといけない、という感じだった。これはたぶん今でもそう。なんたらの学科の教授に会いにいって、どの教科をとるか相談とかして、薦められるがままにいくつかの授業を選んだ。Agribusiness 1, Agribusiness 2とInternational Tradeかそんな感じだったと思う。
ただ、授業を選ぶ、とかそういうのの前に問題があった。Gattonでは、キャンパス内にある寮に住むことになっていたんだけど、特に理由もなく、授業が始まる直前に行くのはやだなぁと思っていたので、1週間くらい前につく様にいった。それがとにかく問題。そもそも牢獄のような寮に、誰もいない、星空きれい、牛モーモー言ってる、という状態。学期が始まるまで食堂は開かないし、食べ物はあるってきいたけど、言われた場所にいったら何もないし(ただし、このあたりは英語力的に何か僕が勘違いしていた可能性は大いにあるのですが)、とぼとぼ30分くらい歩いて一番近くにあるマクドナルドでチキンナゲットかって食べたた。毎日。チキンナゲットを注文してた理由も、発音しやすいのと、マヨネーズ抜きにしてとかセットの詳細を言う(ジュース何にする、とかそういうのも含め)、とか言うのが面倒(ってかちょっと怖いというか、初めて海外いったときのことわかる人おおいでしょ?)、とかそんなチキンな理由です。
一度泣きました。あと、なんとかして電話がかけられるようになったあと、人と話して、もう一度。一人でがんばろう、って気を張ってたのが崩れて涙がでてきた。俺、英語通じないかもしれないけど、とにかく誰か人間がいて欲しいってそのときすごいおもったのを覚えてる。全然話違うけど、大学2年生のとき苫小牧から仙台までフェリーで行ったことがあって、そのときの海の怖さに似てるかな。夜の海ってまじ怖い。
あと、初めてキャンパス上で人に話しかけられたとき、何言ってるかまったくわからなかった。How are ya going mate?って言ってたんだと思う。てか、わかんないよ。きっと。アメリカ人もさ。だから、今の僕の英語も、きっと日本で英語を学んだ人にはとてもわかりづらいと思う(それを裏付ける実体験もあり)。
続く。
暇なので、回顧録。3
1.2.大学3年-4年半ば(交換留学前)(続き)
無事奨学金をもらえることになったものの、留学するには、 留学先から入学許可書?のようなものをもらわなければならぬ、 と判明。そして英語もある程度点数をとらねばならぬ、と。 当時のTOEFLで、677点中550点とる必要がありました。 この辺、正直よく覚えてはいないものの、色々ありました。
まず、大学に提出する必要がある書類。 当たり前だけど全部英語だし、チェックしてくれる人もいない。質問する必要があって、 初めて実家の電話からUQに電話したときは、 なんか結局わけわかんなかった気がします。そして緊張した。 郵送するにしても、なくなったら大変だ、ということでFedexにもっていったら、この住所じゃだめです、と。大学の住所って特に番地とかなくて(なぜなら大学自体が住所だから)、それが駄目だったらしい。結局郵便局から送って事なきを得たけど、今思うと、Fedexはいまいちだった。でも、確実に送れないと思う場合Noという姿勢、間違ってはいないとも思います。
英語の勉強も結構しんどかった。550点っていうのがどれくらい難しいか、ていうと正直よくわからないんだけど、参考書とか買ってよく勉強したな。電車の中でもぶつぶつ勉強してたし、友達から教えてもらった問題集?特にこれ(http://www.beret.co.jp/books/detail/?book_id=7)は重宝しました。O谷くん、キミだよ教えてくれたのは。当時そんなわけでよく英語勉強してました。実家がともに埼玉だったY岡君とはよく一緒にジョナサンとかミスドとかスターバックスとかで恥ずかしげもなく声出して勉強してたな。よく英語を使うためだけに六本木に繰り出したりしてたね。帰れなくなって、大学に戻って寝てたりもしたな。完全ドメ出身の僕らだけど、日本で働いている彼も今は英語問題なく日常的に仕事で使っている。実際のところどの程度役にたったかわからないけど、役に立ったと信じることにしている。楽しかったしね。
初めてのTOEFLはニューヨークで受けました。確か大学3年のクリスマス。緊張して血尿でたよ。ニューヨークには友達がいて、そこに泊まったんだけど、それもNYCじゃなくて旅行者もほとんどいない街だったから、いちいちどきどきしてたな、、、。海外に行くのが初めてだったわけじゃないんだけど(ていっても確かこれが2回目)、やっぱり英語コンプレックスがなせるわざか、アメリカにいるっていう実感だけでどきどきしたよ。普通の住宅地を歩いたり、チャイニーズの店で持ち帰りのなんかを買うだけでも、ほんとどきどきした。一人でバスのるのも、どきどきした。NYCにもちょっと行って、ミュージカルとか見た。何言ってるかまったくわかんなかったけど(今言ってもわかんないかもしれないけどね)。とにかくどきどきしっぱなしだった。
実は一回目のTOEFLの点数はいまいちで、520点くらいだったんだね(実際にはCBTだったから、よく覚えてない)。日本の帰国してもう一度受けたら、無事に600点くらいとれて、英語は無事クリア。あとはビザ関連とか、その他の手配(寮の手配とか)も含めて無事終わって(たぶん)、出国の日がきました。飛行機にのって、1年日本に帰らないんだなぁと思ってしみじみしながら緊張感を高まらせてたのはいまだに覚えてる。1年と思ってたのが結果的に8年以上になっちゃってるんだけど、、、。
Sunday, 9 October 2011
暇なので、回顧録。2
1.2.大学3年-4年半ば(交換留学前)
大学3年から学部の専門にうつるわけだけど、大学1,2年の時の成績でどういう学部・学科に行きたいか決められるわけです。今思うと恐ろしいくらい1,2年のとき何も考えてなかったかよくわかる。普通何を勉強したいとか、将来どうなりたいとか、そいういうの考えるでしょ。ただ単にいける学科の中から選らんだだけ、それが農業経済(厳密には農業構造経済学科、だったかな)。これまた結果から言うと、この動きがあったから今の人生があるわけなんだけど、だからといって、それがいい動きだったかどうだったか、というのは別の話。そうじゃなかったら、という選択肢の結果はしらないのだから。そんなことを考えてみるのは面白いかもしれない一方であまり意味はないよな。意味がないってどういうとか、っていうと、だから今とか将来とるべきアクションに影響を及ぼさないという思う、ということ。
とにかく、大学3年になって、理由はわからないんだけど、まずはまじめに勉強してみよう、と決意しました。本当に理由は覚えてない。たぶん、1,2年を無駄に過ごした、という自覚があって、何かしようと思ったんだけど、何をしていいかわからなかったんだと思います。仲良かった友人(過去形なのは死んでしまったから)は、自分と一緒にぐうたらしていたはずだったのに、当時イケイケだったOn the edge(後のライブドア)で働いていて、がんがん稼いでたし(確か同じ時期に休学して、ライブドアの部長までやってた)、高校から直接アメリカの大学に行った友人は、アメリカの中でもいわゆる有名な大学に編入したり、自分が置いていかれた、という感覚があったんだと思う。ちなみに、今でも置いていかれている、という感覚はあります。
そういうわけで、とりあえず授業には全部出て、しかも一番前の席に座って、積極的に発言して、もろもろの活動にも参加して、テストの勉強もちゃんとやってみたのが、大学3年でした。勉強は楽しかった。成績もよかった、というのもあるけれど、物事に積極的にかかわることで、同じことが面白く感じたりする、と実感できたのはよかったな。あと、自分がアクションを起こすと、何か変わる、面白いことがおこる、っていう風に思えるようになってきたのもこのころです。このあたりから人生が変わってきた、という実感はあります(ただしここ数年は特にアクションをとってない、という実感もあり)。
大学3年から学部の専門にうつるわけだけど、大学1,2年の時の成績でどういう学部・学科に行きたいか決められるわけです。今思うと恐ろしいくらい1,2年のとき何も考えてなかったかよくわかる。普通何を勉強したいとか、将来どうなりたいとか、そいういうの考えるでしょ。ただ単にいける学科の中から選らんだだけ、それが農業経済(厳密には農業構造経済学科、だったかな)。これまた結果から言うと、この動きがあったから今の人生があるわけなんだけど、だからといって、それがいい動きだったかどうだったか、というのは別の話。そうじゃなかったら、という選択肢の結果はしらないのだから。そんなことを考えてみるのは面白いかもしれない一方であまり意味はないよな。意味がないってどういうとか、っていうと、だから今とか将来とるべきアクションに影響を及ぼさないという思う、ということ。
とにかく、大学3年になって、理由はわからないんだけど、まずはまじめに勉強してみよう、と決意しました。本当に理由は覚えてない。たぶん、1,2年を無駄に過ごした、という自覚があって、何かしようと思ったんだけど、何をしていいかわからなかったんだと思います。仲良かった友人(過去形なのは死んでしまったから)は、自分と一緒にぐうたらしていたはずだったのに、当時イケイケだったOn the edge(後のライブドア)で働いていて、がんがん稼いでたし(確か同じ時期に休学して、ライブドアの部長までやってた)、高校から直接アメリカの大学に行った友人は、アメリカの中でもいわゆる有名な大学に編入したり、自分が置いていかれた、という感覚があったんだと思う。ちなみに、今でも置いていかれている、という感覚はあります。
そういうわけで、とりあえず授業には全部出て、しかも一番前の席に座って、積極的に発言して、もろもろの活動にも参加して、テストの勉強もちゃんとやってみたのが、大学3年でした。勉強は楽しかった。成績もよかった、というのもあるけれど、物事に積極的にかかわることで、同じことが面白く感じたりする、と実感できたのはよかったな。あと、自分がアクションを起こすと、何か変わる、面白いことがおこる、っていう風に思えるようになってきたのもこのころです。このあたりから人生が変わってきた、という実感はあります(ただしここ数年は特にアクションをとってない、という実感もあり)。
何を実際にやったか、というとたいしたことはやってないんだけど、たとえば実習(最近放射線関連でよく話題に上る飯舘村における農村調査)に積極的に関与する、とか地域インターンシップでまた他の農村(山梨県早川町)に行ったりするとか。
これを後押しする形で、確か、大学3年の夏だったと記憶してるんだけど(暑かったような記憶があるから)、高校から直接アメリカの大学に行った友人と連絡をとっていて、その友人でアメリカに行っている友人と知り合う機会があった。当時僕は(おそらく前述のPromにおける最悪?の体験から)、英語に対するコンプレックスがあって、とにかく誰かが英語ができる、というだけでものすごい劣等感を感じたし、親には文句言ったし(失礼な話なんですが)、なんで自分は英語環境で勉強する機会を小さいころ得ることができなかったんだろう、と悔しく思っていました。英語っていうところが、ややIssueの定義の仕方が矮小すぎる気はするんですが、当時はとにかくその’特定の点’について思っていたわけ。留学してみたい、ってすごい思っていました。高校生のころ、推薦でPrincetonいける、って掲示板に書いてあったなー。なんで行かなかったのかなーとか思っていたのがこの頃でした。ちなみに、時期は前後しますが(正直よく覚えてない)、英語圏の大学・大学院に行きたいなら成績はある程度いい成績をとっておいたほうがいい、という話をきいたのもまじめに勉強する、というの姿勢を裏づけたように覚えてます。
留学するにはお金が必要だし、そんなお金はない、ということで、大学の留学課みたいなところにいって、奨学金がもらえるかきいたら、ある、って言われて、名前かいてきたんですね。ゼミの担当教官だった先生も賛成してくれました。実は一回その奨学金がもらえない、という通知がきて、まぁしょうがないかな、と思ってたんですが(名前書いただけだし)、ある日その先生が興奮して僕に会いにきてくれて、おい、奨学金もらえることになったぞ、と。それで留学することになりました。
当時は当然アメリカかUKに留学いくものだと思っていたんですが、奨学金の性質上、環太平洋の大学にしかいけず、英語圏の大学がクイーンズランド大学(UQ)だけだったのです。正直乗り気じゃなかったんですが、実はその担当教官だった先生はUQで数年前に客員教授をやっていたこともあり、薦められてUQに行くことになったわけです。それまでオーストラリアに行く気もなかったですし、ブリスベンなんて聞いたこともしらなかったんですが、そこで初めてオーストラリアと縁ができたわけです。行くと決まってから、また長い話になります。
続く。
これを後押しする形で、確か、大学3年の夏だったと記憶してるんだけど(暑かったような記憶があるから)、高校から直接アメリカの大学に行った友人と連絡をとっていて、その友人でアメリカに行っている友人と知り合う機会があった。当時僕は(おそらく前述のPromにおける最悪?の体験から)、英語に対するコンプレックスがあって、とにかく誰かが英語ができる、というだけでものすごい劣等感を感じたし、親には文句言ったし(失礼な話なんですが)、なんで自分は英語環境で勉強する機会を小さいころ得ることができなかったんだろう、と悔しく思っていました。英語っていうところが、ややIssueの定義の仕方が矮小すぎる気はするんですが、当時はとにかくその’特定の点’について思っていたわけ。留学してみたい、ってすごい思っていました。高校生のころ、推薦でPrincetonいける、って掲示板に書いてあったなー。なんで行かなかったのかなーとか思っていたのがこの頃でした。ちなみに、時期は前後しますが(正直よく覚えてない)、英語圏の大学・大学院に行きたいなら成績はある程度いい成績をとっておいたほうがいい、という話をきいたのもまじめに勉強する、というの姿勢を裏づけたように覚えてます。
留学するにはお金が必要だし、そんなお金はない、ということで、大学の留学課みたいなところにいって、奨学金がもらえるかきいたら、ある、って言われて、名前かいてきたんですね。ゼミの担当教官だった先生も賛成してくれました。実は一回その奨学金がもらえない、という通知がきて、まぁしょうがないかな、と思ってたんですが(名前書いただけだし)、ある日その先生が興奮して僕に会いにきてくれて、おい、奨学金もらえることになったぞ、と。それで留学することになりました。
当時は当然アメリカかUKに留学いくものだと思っていたんですが、奨学金の性質上、環太平洋の大学にしかいけず、英語圏の大学がクイーンズランド大学(UQ)だけだったのです。正直乗り気じゃなかったんですが、実はその担当教官だった先生はUQで数年前に客員教授をやっていたこともあり、薦められてUQに行くことになったわけです。それまでオーストラリアに行く気もなかったですし、ブリスベンなんて聞いたこともしらなかったんですが、そこで初めてオーストラリアと縁ができたわけです。行くと決まってから、また長い話になります。
続く。
暇なので、回顧録。
暇なのでブログでも書いてみようかと思うにいたる。
はじめてオーストラリアにきたのが2002年の7月だから、そこから9年以上の月日がたっている。2003年6月から2004年4月まで日本にいた期間を考えても、まる8年以上をオーストラリア、しかもブリスベンのみで過ごしていることになる。この辺は自分でもよく振り返るStats.
ここ10年の話を総括すると、非常に端的にまとめることが可能な気がする。あまりたいしたことやってないからね。先細り感が出てくることを恐れずにまとめてみようと思う。けじめだな。そもそもこのブログ公開されてたか覚えてないけど、確か公開されてたかな。まぁなんでもいいや。
軸の数はそんなに多くない。
1.仕事・勉強
2.家族・夫婦
3.健康・運動
4.友達・ネットワーク
それぞれ完全に別項目ではないけど、そんなに間違っていない分類に思える。
得意の徒然で振り返ってみよう。
1.仕事・勉強
1.1大学入学、1・2年
自分にとって最後のまともな入学式が武道館であって、クラスに女の子がいて、一応最高学府の学生になったわけだ。高校のころと社会的ポジションは変わらないんだけど、それがReinforceされたんだな。俺はトップになる男、みたいな。悪いことじゃないんだろうけど、いまいちどういう枠組みで’トップ’とか’優れてる’とかは考えてなかったね。今でも考えてないけど。小学校で足が速い奴がなんかすごい、みたいになるのと同レベル。外部に対するアウトプットで評価される段階にいたる以前は、こんなのものなのかもしれない。
大学生になるまでアルバイトというものをしたことがなかった。大学生になって、いくつかのアルバイトをした。ドラッグストア店員、リテール売り場店員、居酒屋店員、家庭教師など。なぜこういうアルバイトをしてみたかというと、ただ単に今までやったこがないことをしてみたかった。小金が欲しかった。その程度の理由。今思えば、どのアルバイトにしても、どこかなめていたと思う。恥ずかしい話なんだけど、どこか同じ場所にいる人たちと比べて自分が優れていると感じていた。まわりもそういう風に扱ってくるしね。結果から言うと、それぞれの職場でなにか取り立てて実績を出したわけじゃないし、なんかおかしい話なんだ。
一方で、優越感と裏返しで、劣等感も大きく感じていた。今でもよく覚えているのだけど、高校の友人の友人がアメリカンスクールに通っていて、その縁でアメリカンスクールの卒業パーティ(Prom)に行く機会があったんだけど、ひどい卑屈な気分になった。会場は椿山荘で、おぼろげに見たことがあった“ビバヒル”みたいに“ガイジン”がいっぱいいて、日本なのにみんな英語を話していた。年下なはずなのに、みんな年上に見えた。二次会が下北沢のクラブであって、そのときまで下北沢もクラブも行ったことなくて、さらに英語は話せないし、なにやっていいかわからなかった。みんなが楽しそうにしている中、大学生に入って吸い始めたタバコをフカシ続けながら、”あまり話さなくても楽しい人”ぶってすかしてた。受験で英語の勉強して、それでちゃんと大学に受かって、それでこのざまでした。つらかった。
大学に入ってからの2年間は、ちゃんと勉強した記憶がない。数学とか物理をまともに勉強する最後の機会だったんだけどね。今振り返ると。テストの前に一夜漬けでなんとかしたり、たまになんとかなんなくて友達に前日に教えてもらったりしてた。むしろ、初めて彼女ができたとか、渋谷とか代官山にやけに詳しくなったという話です。かっこいいからそうしてた、とかいうことはないんだけど、いわゆる燃えつき症候群だったのかもしれないし、大学入ってから何かをしたいとかなかったもんね。農学部には行きたいとおもってたけど、はじめの2年間は教養学部だったし、日本の雇用者はうちの大学だったら、その中での成績が就職活動に影響を及ぼすとも思ってなかったし、そもそもおぼろげに研究者になると思ってたけど、それも確固たるものではなかったわけで。初めて彼女という存在がいる、ということにうきうきしたり、別れたりしてへこんだり、都内に住んでる高校の友人の家に入り浸ったり、深夜オールでカラオケいったり、国内の貧乏旅行いったり、小説とかにでてくるようなモノトリアムな生活を実践してみたかっただけ、という時代だったんだな。贅沢な話。結果から言うと、この時代にみんながやるようなことをやってただけなんだけど、それでも個人レベルでみたらよかったなとも思ってる。一人で四国の電車にのりながら、村上春樹の小説読んでたときが、この時代のハイライトだった気がする。自分に酔ってたんだな。
続く。
はじめてオーストラリアにきたのが2002年の7月だから、そこから9年以上の月日がたっている。2003年6月から2004年4月まで日本にいた期間を考えても、まる8年以上をオーストラリア、しかもブリスベンのみで過ごしていることになる。この辺は自分でもよく振り返るStats.
ここ10年の話を総括すると、非常に端的にまとめることが可能な気がする。あまりたいしたことやってないからね。先細り感が出てくることを恐れずにまとめてみようと思う。けじめだな。そもそもこのブログ公開されてたか覚えてないけど、確か公開されてたかな。まぁなんでもいいや。
軸の数はそんなに多くない。
1.仕事・勉強
2.家族・夫婦
3.健康・運動
4.友達・ネットワーク
それぞれ完全に別項目ではないけど、そんなに間違っていない分類に思える。
得意の徒然で振り返ってみよう。
1.仕事・勉強
1.1大学入学、1・2年
自分にとって最後のまともな入学式が武道館であって、クラスに女の子がいて、一応最高学府の学生になったわけだ。高校のころと社会的ポジションは変わらないんだけど、それがReinforceされたんだな。俺はトップになる男、みたいな。悪いことじゃないんだろうけど、いまいちどういう枠組みで’トップ’とか’優れてる’とかは考えてなかったね。今でも考えてないけど。小学校で足が速い奴がなんかすごい、みたいになるのと同レベル。外部に対するアウトプットで評価される段階にいたる以前は、こんなのものなのかもしれない。
大学生になるまでアルバイトというものをしたことがなかった。大学生になって、いくつかのアルバイトをした。ドラッグストア店員、リテール売り場店員、居酒屋店員、家庭教師など。なぜこういうアルバイトをしてみたかというと、ただ単に今までやったこがないことをしてみたかった。小金が欲しかった。その程度の理由。今思えば、どのアルバイトにしても、どこかなめていたと思う。恥ずかしい話なんだけど、どこか同じ場所にいる人たちと比べて自分が優れていると感じていた。まわりもそういう風に扱ってくるしね。結果から言うと、それぞれの職場でなにか取り立てて実績を出したわけじゃないし、なんかおかしい話なんだ。
一方で、優越感と裏返しで、劣等感も大きく感じていた。今でもよく覚えているのだけど、高校の友人の友人がアメリカンスクールに通っていて、その縁でアメリカンスクールの卒業パーティ(Prom)に行く機会があったんだけど、ひどい卑屈な気分になった。会場は椿山荘で、おぼろげに見たことがあった“ビバヒル”みたいに“ガイジン”がいっぱいいて、日本なのにみんな英語を話していた。年下なはずなのに、みんな年上に見えた。二次会が下北沢のクラブであって、そのときまで下北沢もクラブも行ったことなくて、さらに英語は話せないし、なにやっていいかわからなかった。みんなが楽しそうにしている中、大学生に入って吸い始めたタバコをフカシ続けながら、”あまり話さなくても楽しい人”ぶってすかしてた。受験で英語の勉強して、それでちゃんと大学に受かって、それでこのざまでした。つらかった。
大学に入ってからの2年間は、ちゃんと勉強した記憶がない。数学とか物理をまともに勉強する最後の機会だったんだけどね。今振り返ると。テストの前に一夜漬けでなんとかしたり、たまになんとかなんなくて友達に前日に教えてもらったりしてた。むしろ、初めて彼女ができたとか、渋谷とか代官山にやけに詳しくなったという話です。かっこいいからそうしてた、とかいうことはないんだけど、いわゆる燃えつき症候群だったのかもしれないし、大学入ってから何かをしたいとかなかったもんね。農学部には行きたいとおもってたけど、はじめの2年間は教養学部だったし、日本の雇用者はうちの大学だったら、その中での成績が就職活動に影響を及ぼすとも思ってなかったし、そもそもおぼろげに研究者になると思ってたけど、それも確固たるものではなかったわけで。初めて彼女という存在がいる、ということにうきうきしたり、別れたりしてへこんだり、都内に住んでる高校の友人の家に入り浸ったり、深夜オールでカラオケいったり、国内の貧乏旅行いったり、小説とかにでてくるようなモノトリアムな生活を実践してみたかっただけ、という時代だったんだな。贅沢な話。結果から言うと、この時代にみんながやるようなことをやってただけなんだけど、それでも個人レベルでみたらよかったなとも思ってる。一人で四国の電車にのりながら、村上春樹の小説読んでたときが、この時代のハイライトだった気がする。自分に酔ってたんだな。
続く。
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