1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)
繰り返しになるけど、「暇なので」と題に書いてあるが必ずしも暇ではないです。でもまぁ書く暇がある、という意味では暇か。結果としてすぐ書くスピードが遅くなるので、もしも続きが読みたいという人は是非催促してください、、、。
とにかく僕のオーストラリアでの2回目の生活は始まりました。レズビアンの彼女たちとの居候の期間は終わり、僕の友人の友人(だったような気がする)の家で今度は住むことになりました。Greenslopesというところ。ここは、いい思い出がないので書きたくないのですが回顧録なので憶えている限り書いてみようと思います。
唯一よかったのは家賃。週70ドルでした。今から考えるとものすごい安いけど、当時の感覚でも安かったです。一つ部屋があって、一応机とベッドがあって。あとは、基本的に非常にいまいち。というか、一緒に住んでた‘友人の友人’がその妹と一緒に住んでいて、僕はそこの空き部屋を借りるような形になっていたのですね。あぁ、何がいやだったかというと、まず、多勢に無勢(ようは、僕の立場は居候に極めて近い形であり、住空間に対する権限がほぼゼロ-という風に少なくとも僕は感じていました)。あとは、出来上がった空間への侵入者的な扱い(を受けているように感じていた)。ようは、自分の部屋以外にいるときにとにかくリラックスできないわけですよ。話すこともないし。てかまぁ英語的に微妙だったし、こっちから話しかけるような感じでもなかったのが原因なのかもしれないですが。あと、猫がいたんだけど、一度猫のう○こを素足で踏んでしまったことも。今のうちの猫はかわいいけど、あの猫は憎い。憶えてないけど。さらに、大学までも遠かったし、、、(車がない当時の感覚では特に)。
その頃、大学院が7月に始まるまで(オーストラリアでは、大学は2学期せいで、1学期目は2月の終わりから6月の途中まで、2学期目は7月の終わりから11月の途中までで、1学期目からでも2学期目からでも入学可能)、大学の付属の英語学校に3ヶ月だけ通っていました。
一瞬ここで脱線して、当時の英語学校感について少々。今はそこまで思わないのですが、とにかく英語学校というものに対して、「2流」という印象を持っていました。英語学校いくこと、かっこ悪い、が「いじめ、かっこ悪い」並みにしみこんでいたわけです。これは、なんでだかなんとなくわかる。おそらく理由として、友人で英語を話せる人がいる、英語で勉強してる人がいる、という事実と比べて英語「を」勉強する、ということが段階として「下のこと」だという思いがあって、逆にそういう風に自分が思っているものだから、「下」に思われたくない、という動機で英語学校に行きたくなかったわけです。人に聞かれても、「大学院が始まるまでの間だけだし」みたいな感じですな。ようはかっこつけですよ。英語できないんだから(てか、マジ自分で言うのもほんとアレだけど自分の学歴でこれって日本の教育どうよ!って思いますけど)、できないなりに恥かけよ、って今は思うんですけどね、、、。
ちなみに、英語学校に実際に行ってから大分印象が変わりました。もちろんある程度上のクラスだったから、っていうこともあるのだろうけど、意外と役に立ちそうだなぁと当時思って、それから英語学校に対する偏見は特になくなりました。まぁその時点に至るまで英語学校というものに通ったことがない、という事実にどこか誇りを持っていたようなところもあるので、それも偏見の原因になっていたのかもしれません。
まぁ、とにかく英語学校に3ヶ月通って、その間はうんちみたいな仕事を会社でさせていただいておりました。
続く。
Wednesday, 9 November 2011
Sunday, 6 November 2011
暇なので、回顧録。16
1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)
無事に?ブリスベン空港へ到着し、日本人の上司の車に乗せてもらい、家まで送ってもらう、、、けど家はどこ?
実は、交換留学生時代に一緒に住んでいたシンガポール人のカップルのところに泊めてもらうはずだったのですが、確か出発の数日前に確認したらテスト期間中だから難しい、とのこと(まじか!てか、今思うとちょっとひどい。でもまぁいっかって思ってしまう私、いまいちなのかどうなのか、、、)。今の会社が確か始めの2週間分くらいのアコモデーション代は持ってくれるような契約になっていたのですが、チキン日本人の僕は、それを「申し訳なく」思い、そんなことにお金は使わないことに。だってこんなペーペーがホテルにしばらく住むとかってお金の無駄でしょ。ちなみに今だったらこういう正当な権利はちゃんと行使する。不必要でない限り、、、。
とはいえ、僕を送り届けたあとで上司も出勤しなければいけないわけで、したがって僕をどこかで落とす必要があるわけです。空気を読んだ僕はとりあえずUQ(クイーンズランド大学)に行って下さい、といい、そこからは適当になんとかします、とノタマウ。
UQのキャンパスにポツ-ンとスーツケースと僕。宿のことは一忘れし、あー久しぶりだなぁ、と。これが来豪イッパツめだったらかなりてんぱってだろうけど、なんとかなるだろう経験値はだいぶ上がっていたのであった。まぁ所詮最悪ホテルにいけばいいだけだし、つまりお金の、しかも大したことない金額の、問題なのだ。最悪ケースでも。最悪のケースで抱えられるリスクかどうかを考えてリスクをとる、という生き方はこのあたりで始まった、、、。
さて、とは言うものの一人でその瞬間どうこうできるわけでもないので、UQでお世話になったU先生のオフィスへとりあえず行ってみる。何言ってるんだ、と思ったに違いないU先生は、ナイスにしてくれ、彼女の講義に参加している学生で、スペアの部屋がある学生がいないか聞いてくれると言う。この時点で、ラッキーと思いつつ、見つからなかったらどうしよう、という思いはゼロ。U先生のオフィスのフロアで2,3時間寝る。当時はまだカンタス便で成田→ブリスベンの直通便があったけど、エコノミーはやはり寝られない(といってももちろんビジネスは乗れない)。
結果的には一人部屋が空いている、という女の子がいて、授業のあとU先生にその子の家まで送ってもらうことに。ほらね、なんとかなるでしょ、と心の中で思いながら家に到着。女の子二人がすんでいるタウンハウス(アパートと家の中間みたいな奴)で、場所はIndooroopillyという、ブリスベンのCBDから電車で15分、UQまではバスで、、、同じくらい?のところでした。かといって、そこに長居できるわけではないので、新たな住処が見つかるまでの一時居住。
日本語を勉強している女の子だったので、アサインメントを手伝ったり(というか、それはCheatだろ!と思うんだが)、一緒に夜遊びにいったりしつつ、まずはそこからとにかく会社には出勤?はじめました。出勤といっても、たいしたことはやりませんでしたが、、、。ところで、後になってわかることですが、この女の子二人は同性愛者でした。そう、オーストラリアには同性愛者いっぱいいるんだよ!
続く。
無事に?ブリスベン空港へ到着し、日本人の上司の車に乗せてもらい、家まで送ってもらう、、、けど家はどこ?
実は、交換留学生時代に一緒に住んでいたシンガポール人のカップルのところに泊めてもらうはずだったのですが、確か出発の数日前に確認したらテスト期間中だから難しい、とのこと(まじか!てか、今思うとちょっとひどい。でもまぁいっかって思ってしまう私、いまいちなのかどうなのか、、、)。今の会社が確か始めの2週間分くらいのアコモデーション代は持ってくれるような契約になっていたのですが、チキン日本人の僕は、それを「申し訳なく」思い、そんなことにお金は使わないことに。だってこんなペーペーがホテルにしばらく住むとかってお金の無駄でしょ。ちなみに今だったらこういう正当な権利はちゃんと行使する。不必要でない限り、、、。
とはいえ、僕を送り届けたあとで上司も出勤しなければいけないわけで、したがって僕をどこかで落とす必要があるわけです。空気を読んだ僕はとりあえずUQ(クイーンズランド大学)に行って下さい、といい、そこからは適当になんとかします、とノタマウ。
UQのキャンパスにポツ-ンとスーツケースと僕。宿のことは一忘れし、あー久しぶりだなぁ、と。これが来豪イッパツめだったらかなりてんぱってだろうけど、なんとかなるだろう経験値はだいぶ上がっていたのであった。まぁ所詮最悪ホテルにいけばいいだけだし、つまりお金の、しかも大したことない金額の、問題なのだ。最悪ケースでも。最悪のケースで抱えられるリスクかどうかを考えてリスクをとる、という生き方はこのあたりで始まった、、、。
さて、とは言うものの一人でその瞬間どうこうできるわけでもないので、UQでお世話になったU先生のオフィスへとりあえず行ってみる。何言ってるんだ、と思ったに違いないU先生は、ナイスにしてくれ、彼女の講義に参加している学生で、スペアの部屋がある学生がいないか聞いてくれると言う。この時点で、ラッキーと思いつつ、見つからなかったらどうしよう、という思いはゼロ。U先生のオフィスのフロアで2,3時間寝る。当時はまだカンタス便で成田→ブリスベンの直通便があったけど、エコノミーはやはり寝られない(といってももちろんビジネスは乗れない)。
結果的には一人部屋が空いている、という女の子がいて、授業のあとU先生にその子の家まで送ってもらうことに。ほらね、なんとかなるでしょ、と心の中で思いながら家に到着。女の子二人がすんでいるタウンハウス(アパートと家の中間みたいな奴)で、場所はIndooroopillyという、ブリスベンのCBDから電車で15分、UQまではバスで、、、同じくらい?のところでした。かといって、そこに長居できるわけではないので、新たな住処が見つかるまでの一時居住。
日本語を勉強している女の子だったので、アサインメントを手伝ったり(というか、それはCheatだろ!と思うんだが)、一緒に夜遊びにいったりしつつ、まずはそこからとにかく会社には出勤?はじめました。出勤といっても、たいしたことはやりませんでしたが、、、。ところで、後になってわかることですが、この女の子二人は同性愛者でした。そう、オーストラリアには同性愛者いっぱいいるんだよ!
続く。
Saturday, 5 November 2011
暇なので、回顧録。15
1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)
ブリスベンの空港には、日本人の上司が迎えにきてくれました。ここで一つエピソードが。ただし、このエピソードはかなりの人数の人が知っているので今更感があるかもしれません、、、。
空港でも依然極度のキョドリを見せていた僕は、おそらく周りから見ても極度のキョドっているのがあからさまだったと見え、税関の申告場所でスーツケース全開示を求められました。「オーストラリアには何しに来たんだ」って聞かれて、勉強と仕事ですって答えたわけだけど、これは完全にXな答え。勉強って言わなきゃいけなかったです。今思ったら。学生ビザだったしね。まぁ学生ビザでも働けるから問題はないんだけど。日本はまだオーストラリアの移民局的にノーマーク的な位置づけだけど、「もぐりこもうとしてる」と思われかねない国からの学生だったら、まずかったでしょうな~。
スーツケースは全部ひっくり返されて大変なことになりました。ここで問題発生!23歳、しばらく彼女がいないことを覚悟していたワタシは大量のアダルトDVDを持参していました。大量っていっても10枚くらいだけど。この大半は高校の友人T木氏からもらったサンプル、、、。なんていうんだろこういうの。旅の祝いだもってけドロボーみたいな感じだったのかな、、、。当然発見されるわけです。担当官に。
担当官「なんだこれは」
田村「、、、ポーンです、、、でも、違法じゃないよ、合法の奴。合法の奴、、、」
と必死に自己弁護をする。いや、本当に合法のやつだし!
結局担当官は全てのアダルトDVDを持って立ち去り、僕がまぁしょうがないかーと思っていた頃(確か20-30分くらい待たされた-この時間については諸々の憶測をよんだ)、帰ってきて全部戻してくれました。
というわけで、そもそも朝のブリスベン空港はごった煮状態で混むのに、こんな出来事があり入国ゲートをくぐることができたのは相当後のことになってしまいました。空港の到着フロア(よく旅行のツアーの人とかが旗とかもって待っているところね)で頭をかきかき日本人の上司に挨拶。彼は、僕があまりにも出てこないから、日程を勘違いしたと思い、もう帰ろうかと思っていたとのこと。
日本人の上司「なんでこんなに時間かかったんだ?」
田村「いや、、、ちょっと言えないっす」
日本人の上司「言わなかったらクビだー今すぐ帰れー」(と言ったかは定かではないが、後日談-たぶんこんな言い方ではないw)
田村「いや、、、ちょっとエロDVDが見つかっちゃいましてw」
というわけで、大阪出身の彼にはこの反応がウケ、事なきを得たわけですが、そう時間がかからないうちに、ブリスベンの日本人ビジネスコミュニティーでは、僕は「DVDの彼」として認識されることになり、会ったことがない人からも「あーキミがあのDVDの!」と言われるまでの有名人?に短期間のうちに成長するわけです。結果、おいしいネタになったわけですが、税関は気をつけたほうがいいですね。
続く。
ブリスベンの空港には、日本人の上司が迎えにきてくれました。ここで一つエピソードが。ただし、このエピソードはかなりの人数の人が知っているので今更感があるかもしれません、、、。
空港でも依然極度のキョドリを見せていた僕は、おそらく周りから見ても極度のキョドっているのがあからさまだったと見え、税関の申告場所でスーツケース全開示を求められました。「オーストラリアには何しに来たんだ」って聞かれて、勉強と仕事ですって答えたわけだけど、これは完全にXな答え。勉強って言わなきゃいけなかったです。今思ったら。学生ビザだったしね。まぁ学生ビザでも働けるから問題はないんだけど。日本はまだオーストラリアの移民局的にノーマーク的な位置づけだけど、「もぐりこもうとしてる」と思われかねない国からの学生だったら、まずかったでしょうな~。
スーツケースは全部ひっくり返されて大変なことになりました。ここで問題発生!23歳、しばらく彼女がいないことを覚悟していたワタシは大量のアダルトDVDを持参していました。大量っていっても10枚くらいだけど。この大半は高校の友人T木氏からもらったサンプル、、、。なんていうんだろこういうの。旅の祝いだもってけドロボーみたいな感じだったのかな、、、。当然発見されるわけです。担当官に。
担当官「なんだこれは」
田村「、、、ポーンです、、、でも、違法じゃないよ、合法の奴。合法の奴、、、」
と必死に自己弁護をする。いや、本当に合法のやつだし!
結局担当官は全てのアダルトDVDを持って立ち去り、僕がまぁしょうがないかーと思っていた頃(確か20-30分くらい待たされた-この時間については諸々の憶測をよんだ)、帰ってきて全部戻してくれました。
というわけで、そもそも朝のブリスベン空港はごった煮状態で混むのに、こんな出来事があり入国ゲートをくぐることができたのは相当後のことになってしまいました。空港の到着フロア(よく旅行のツアーの人とかが旗とかもって待っているところね)で頭をかきかき日本人の上司に挨拶。彼は、僕があまりにも出てこないから、日程を勘違いしたと思い、もう帰ろうかと思っていたとのこと。
日本人の上司「なんでこんなに時間かかったんだ?」
田村「いや、、、ちょっと言えないっす」
日本人の上司「言わなかったらクビだー今すぐ帰れー」(と言ったかは定かではないが、後日談-たぶんこんな言い方ではないw)
田村「いや、、、ちょっとエロDVDが見つかっちゃいましてw」
というわけで、大阪出身の彼にはこの反応がウケ、事なきを得たわけですが、そう時間がかからないうちに、ブリスベンの日本人ビジネスコミュニティーでは、僕は「DVDの彼」として認識されることになり、会ったことがない人からも「あーキミがあのDVDの!」と言われるまでの有名人?に短期間のうちに成長するわけです。結果、おいしいネタになったわけですが、税関は気をつけたほうがいいですね。
続く。
Friday, 4 November 2011
暇なので、回顧録。14
1.5.大学卒業後、再渡豪
おそらくもろもろの送別会(のようなもの)をしてもらった後で、渡豪する日がきた。といっても、正直これもまたよく憶えてない。ぜんぜん回顧できてないな、、、。あの時は親も一緒に空港まできてくれたんだったけな。高校のバスケ部の友達(+後輩一人)が空港に来てくれたのは憶えてる。というか、その写真があったからなんだけどね。写真のおかげでなんとなく憶えてるんだよな。ていうか、本当に憶えてるのか写真のおかげで事実を記憶しているのか、どっちでしょう。
ふと思い出すのが、高校の友人のN田氏がアメリカの大学に行くために飛び立つとき、これまたバスケ部の友達が成田空港に大挙して見送った気が。このときは見送る側だったけど。そんでもって彼が出国ゲートに消えたあと、みんなで屋上にいって適当に飛行機を選んで、彼がその飛行機に乗っていると仮定し、その飛行機に手をふって空港をあとにした、、、。そんなエピソードがありました。
さて、飛行機の中で何を考えていたか、というと、確か交換留学に行くときに飛行機で感じていたことの差を考えていたような気がする。交換留学のとき、1年間日本から離れて暮らす、ということに対して、ものすごい長い期間だと思っていたのが、2回目(しかもほぼ永住の方向)には逆にあまりなんとも感じなかったのだった。ただ、それよりも、初めて会社で働くということ、そして英語で働くということに対してびびりまくっていたのは当然のことであった、、、。
留学したことがある人ならわかると思うけど、特にある程度の年齢になってからだと特に、1年で自分が期待してたほど言葉はましにならないってこと。完全にスラムダンクの桜木花道のセルフイメージ状態ですな。いや、セルフイメージと実際の姿との差に辟易して、焦って、ということ。桜木花道も地道なトレーニングでシュート練習をしたのと同様、地道な作業によってしか向上しないもの、というのもある、、、。さらにいうと、10年いても地道な作業を怠ると何も変わりません。うーん。偉そうだw 完全に自戒をこめたメッセージになってしまった。
とにかく、いいたかったのは、いくらTOEFLで300点中270点以上とってても、だめなものはだめ、ということです。1年間交換留学した後でもね。もちろん以前よりはましになったとしてもね。電話するときとか電話かかってきたときの恐怖感、わかる人いっぱいいるでしょう。あの恐怖感を感じながら飛行機に乗っていたのです。
続く。
おそらくもろもろの送別会(のようなもの)をしてもらった後で、渡豪する日がきた。といっても、正直これもまたよく憶えてない。ぜんぜん回顧できてないな、、、。あの時は親も一緒に空港まできてくれたんだったけな。高校のバスケ部の友達(+後輩一人)が空港に来てくれたのは憶えてる。というか、その写真があったからなんだけどね。写真のおかげでなんとなく憶えてるんだよな。ていうか、本当に憶えてるのか写真のおかげで事実を記憶しているのか、どっちでしょう。
ふと思い出すのが、高校の友人のN田氏がアメリカの大学に行くために飛び立つとき、これまたバスケ部の友達が成田空港に大挙して見送った気が。このときは見送る側だったけど。そんでもって彼が出国ゲートに消えたあと、みんなで屋上にいって適当に飛行機を選んで、彼がその飛行機に乗っていると仮定し、その飛行機に手をふって空港をあとにした、、、。そんなエピソードがありました。
さて、飛行機の中で何を考えていたか、というと、確か交換留学に行くときに飛行機で感じていたことの差を考えていたような気がする。交換留学のとき、1年間日本から離れて暮らす、ということに対して、ものすごい長い期間だと思っていたのが、2回目(しかもほぼ永住の方向)には逆にあまりなんとも感じなかったのだった。ただ、それよりも、初めて会社で働くということ、そして英語で働くということに対してびびりまくっていたのは当然のことであった、、、。
留学したことがある人ならわかると思うけど、特にある程度の年齢になってからだと特に、1年で自分が期待してたほど言葉はましにならないってこと。完全にスラムダンクの桜木花道のセルフイメージ状態ですな。いや、セルフイメージと実際の姿との差に辟易して、焦って、ということ。桜木花道も地道なトレーニングでシュート練習をしたのと同様、地道な作業によってしか向上しないもの、というのもある、、、。さらにいうと、10年いても地道な作業を怠ると何も変わりません。うーん。偉そうだw 完全に自戒をこめたメッセージになってしまった。
とにかく、いいたかったのは、いくらTOEFLで300点中270点以上とってても、だめなものはだめ、ということです。1年間交換留学した後でもね。もちろん以前よりはましになったとしてもね。電話するときとか電話かかってきたときの恐怖感、わかる人いっぱいいるでしょう。あの恐怖感を感じながら飛行機に乗っていたのです。
続く。
Thursday, 3 November 2011
暇なので、回顧録。13
1.4.交換留学後-卒業まで (続き)
「暇なので、回顧録」と書いた手前、特に暇でもないと書く気がしなかったのだけど、今日友人のK澤氏から書けという要請が来たので書くことにします。
正直どこまで何を書いたか覚えていなかったんだけど、実はちょっと前のを読み返すと、そもそも何を書いていいかよくわからなくなってきていたのと、ある特定の時期についての記憶が非常に曖昧になっていることがあり、ようはストラクチャーだって書けなくなってきたのも原因だった、、、気がする。でもとにかく書いてみる。書き始めると意外と思い出すものだ、、、。
2度目の留学件就職(というか移住)という時期は、混沌としてました。いや、だからよく覚えてないんだな。混沌の要素としては、卒論(休学届けを9月に出して、10月に撤回したものだから、準備期間がほぼなし)、バイト(というか、前回話したオークションサイトの件)、英語不安(前回さらっとTOEFL受けなおした、と書いたけど、そういう問題じゃぁありません)等。これは勉強・仕事とは関係ないのだけど、高校の同窓会の開催(結果的にはよかったけどややぐだぐだな幹事でした)もある時期の忙しさを助長したかと。
卒論については、大学のPCルームで他の人と一緒に製本してた、、、ような記憶が。バイト、については前述のとおり。英語不安については、、、これまた覚えてない。とにかく混沌として充実してた、という思い出だけはありますな。これ、全然回顧できてないね。面白いくらい過去のことを忘れている、という事実。そんな昔じゃないのに。
うんうんうなっても覚えてないものは覚えてないものは覚えてないので、そろそろもう豪州に帰ってきたときの話をしようと思いますが(特にカテゴリーを勉強・仕事、としているので、あまりエピソードなし)、一つだけ今思い出した。
実は僕は大学1,2年の教養学部では成績微妙者だったのですが、3年生になってからまじめに勉強したせいか、成績は非常によかったのです。なぜいい成績をとろうと思ったかについては前述したと思うので再びは触れませんが(実際後で役に立ってると思う)、とりあえず同じ学科の中で成績はトップ(ただしタイ)でした僕のいた学部では、持ち回りの学科の成績トップの人が卒業証書を代表でもらうことになっている(らしい)のですが、僕はどうやら平均ではトップでも『優」の数がもう一人のトップの人より少なかったので(これは交換留学のときの単位が互換されたされたときに日本の大学で成績がつかなかったので)、残念ながら代表でもらうことにはなりませんでした。
まぁどうでもいい話なんですが、そいういうわけで、それだったらいいや、と思って大学の卒業式には出席せず、謝恩会に顔を出して卒業証書だけもらいにいきました。きっと意外としこしこ勉強したのを認めてもらいたかったんでしょうが、今は卒業式でてもよかったのかなぁとは思います。でも、これはその後取得する学位・資格すべてに通じることですが、卒業式とか資格授与式とかにはまったく興味が持てず(10%くらいそれをクールだと思っているフシは否めませんが)、結局全部郵送してもらってます。
でも、ひそかに卒業証書を学部代表でもらうってのはやってみたかったなー。
続く。
「暇なので、回顧録」と書いた手前、特に暇でもないと書く気がしなかったのだけど、今日友人のK澤氏から書けという要請が来たので書くことにします。
正直どこまで何を書いたか覚えていなかったんだけど、実はちょっと前のを読み返すと、そもそも何を書いていいかよくわからなくなってきていたのと、ある特定の時期についての記憶が非常に曖昧になっていることがあり、ようはストラクチャーだって書けなくなってきたのも原因だった、、、気がする。でもとにかく書いてみる。書き始めると意外と思い出すものだ、、、。
2度目の留学件就職(というか移住)という時期は、混沌としてました。いや、だからよく覚えてないんだな。混沌の要素としては、卒論(休学届けを9月に出して、10月に撤回したものだから、準備期間がほぼなし)、バイト(というか、前回話したオークションサイトの件)、英語不安(前回さらっとTOEFL受けなおした、と書いたけど、そういう問題じゃぁありません)等。これは勉強・仕事とは関係ないのだけど、高校の同窓会の開催(結果的にはよかったけどややぐだぐだな幹事でした)もある時期の忙しさを助長したかと。
卒論については、大学のPCルームで他の人と一緒に製本してた、、、ような記憶が。バイト、については前述のとおり。英語不安については、、、これまた覚えてない。とにかく混沌として充実してた、という思い出だけはありますな。これ、全然回顧できてないね。面白いくらい過去のことを忘れている、という事実。そんな昔じゃないのに。
うんうんうなっても覚えてないものは覚えてないものは覚えてないので、そろそろもう豪州に帰ってきたときの話をしようと思いますが(特にカテゴリーを勉強・仕事、としているので、あまりエピソードなし)、一つだけ今思い出した。
実は僕は大学1,2年の教養学部では成績微妙者だったのですが、3年生になってからまじめに勉強したせいか、成績は非常によかったのです。なぜいい成績をとろうと思ったかについては前述したと思うので再びは触れませんが(実際後で役に立ってると思う)、とりあえず同じ学科の中で成績はトップ(ただしタイ)でした僕のいた学部では、持ち回りの学科の成績トップの人が卒業証書を代表でもらうことになっている(らしい)のですが、僕はどうやら平均ではトップでも『優」の数がもう一人のトップの人より少なかったので(これは交換留学のときの単位が互換されたされたときに日本の大学で成績がつかなかったので)、残念ながら代表でもらうことにはなりませんでした。
まぁどうでもいい話なんですが、そいういうわけで、それだったらいいや、と思って大学の卒業式には出席せず、謝恩会に顔を出して卒業証書だけもらいにいきました。きっと意外としこしこ勉強したのを認めてもらいたかったんでしょうが、今は卒業式でてもよかったのかなぁとは思います。でも、これはその後取得する学位・資格すべてに通じることですが、卒業式とか資格授与式とかにはまったく興味が持てず(10%くらいそれをクールだと思っているフシは否めませんが)、結局全部郵送してもらってます。
でも、ひそかに卒業証書を学部代表でもらうってのはやってみたかったなー。
続く。
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