Saturday, 20 October 2012

体調悪いので備忘録-転職編3

転職編2を書いてから、放置したことも忘れていたわけだけど、また体調が実際に悪くなったこともあり、もう一度書いてみる。働き始めてから半年が過ぎたこと、日本へ一度帰る機会があったことから、タイミング的にはとてもいいタイミングだと思われる。忘れるべきじゃないことを忘れてたり、勘違いしがちな状況で、考えをまとめる、という作業は実に有用な気がする。物忘れがひどくなりつつある最近は特に。

まず、転職を決めたときのことを思い出してみる。

英語

オーストラリアに来たのは偶然の産物であるが、そもそも「海外」(この場合、ニアイコール英語)に興味を持った理由は、圧倒的な劣等感(これが、前述したプロムにおける劣等感なのか、多くの日本人がそもそも持つと僕が勝手に思っている「白人」「英語」「アメリカ人」に対する劣等感なのかはわかりませんが)です。当時そこまで言語化できていたかわからないけど。

会計事務所時代は、働き始めた背景を考えれば当然のごとく、特に後半は日系のお客さんの仕事を多くやらせてもらっていました。給料をもらっている以上、教育機関ではないわけで、自分がどういう価値を提供できるか、という点で考えても至極当然です。お客さんにも恵まれ、文化がクロスする中間点で、職務内容についても文化・言語の橋渡しと専門分野の仕事の両方をさせてもらっていました。ただし、一点ずっと気になっていたのは、この仕事を自分の意思で「選んだ」わけではない、という意識、つまり「決意」の欠如です。

好き・嫌い・いい仕事・つまらない仕事、という軸ではなく、自分で選んだことかどうか、という軸の問題です。この軸は、自分が他の場所でも働くことができるか、ということをまず証明した上でようやく振り返ることができる軸だと常々感じていました。ただ、今の状態を抜ける自信も特にない。

ちなみに、大手会計事務所のパートナーになっていく、というキャリアもありますが(そしてそんなに簡単なことではない)、自分がそのキャリアパスに乗るには、上でも記した「決意」が必要になることは間違いなく、その中で「選ぶ」ということができない限り、決意を持つことはできないと感じていました。

というわけで、今の会社からオファーをもらったときは素直にすごく嬉しかったです。自分は選択することができるんだ、と。ここで自分は日本人としてではなくて、一個人として、その国で優秀な人が多くいる組織で成功できるようにがんばって、自信ができたらその後のことはその時考えよう、と思っています。ちなみに、これは、面接でも言ったことです。

ユニークなのはどちらだ?

これも、いいか悪いかは別として、常に僕の中で持っている軸です。友人の中で自分のことをどうやって差別化していくか、という点。

このくらいの年齢になると、高校生までリニアな関係であった(もしくはそう信じていた)上下関係(成功・失敗)がかなり多様化してきます。つまり、例えば東大理科3類に現役で入った人は、そうじゃない人よりもより優秀である、というような単純な軸はもうない。これに入れ替わるのは収入かもしれないし、社会に対するインパクトかもしれない。有名かどうかということかもしれないし、家族が団欒できる生活をしていることかもしれない。美人な彼女が何人もいることかもしれないし、一般的にリスペクトされる職種についていることかもしれない。

同じような軸で僕が常に考えてしまうのは、高校の友人の中で、自分はユニークな存在でいることができているか、です。結論から言うと、日本人の会計士は意外と海外には多い。特にアメリカは大量の日本人部隊がいると聞きます。パートナークラスにまでなれば「ユニーク」ではあると思いましたが、上述通り、違う理由でそのキャリアパスは少なくとも現段階ではないと思っていたので、今の仕事のほうがユニーク度が高い、と判断しました。

その他

給与・職種も副次的な要因ではありました。それなりに給与もあがって、以前から会計事務所内でも希望していた税務チームに入れるということです。でも、やはり振り返ってみれば主たる理由ではなかったと思います。



Saturday, 5 May 2012

体調悪いので備忘録-転職編2

去る2012年3月に、僕は8年近く勤めた会計事務所を辞めて今度は資源会社の税務部門に転職した。

非常に直線的に進んできた僕の大学生までの人生を、結果としてやや斜めに逸らすように転換したのが、オーストラリアでの、というか僕にとって人生で初めての「就職」だった。小学校・中高・大学のどれよりも長い期間を過ごしたその場所を出る、ということはそれ自体がなかなかのできごとだったと思う。ちなみに転職の「仕方」、および転職先としては、オーストラリアでは普通であり、特段珍しいことではない。それが第三者に起こっている限りにおいては。

ここしばらくで下した比較的大きめな決断としては、それこそオーストラリアで就職(移住)、結婚、自宅購入などがあるのが、それらの決断と比べると異色の決断だった。通常、大きい決断ほど決断に時間は使わないのが常だった。オーストラリアに交換留学に来るときも、こちらの会計事務所で働くことになったときも、結婚も、自宅購入も、全部ほぼ迷いなく直感で決めた。直感というのはあまり適切な表現でなく、「損こいても大勢に影響を与えないことはないだろう」という信じることができるのが容易かった、というべきなのかもしれない。

いや、これも適切でないかもしれない。少なくとも結論は比較的簡単に出ていた気がする。つまり、自分個人としてはもっとも適切な解はこれである、ということ。だから、あまり考えることはなかった。むしろ、考えたのではなくてよく悩んだ。自分以外の人間関係、利害関係が関わるため、どのように、どのようなインパクトで周りの人たちに影響を与えるかクリアじゃなかったためだ。自分の人生だから自分の生き方は自分で決めるべきだし決めることができるべき、とは理解できるものの、自分の生き方が第三者に与えるマイナスの影響は最小限にする責任は当然ある、、、。何よりも今まで築いてきた人間関係を壊すことがあったらいやだ、というまさに二兎を追う自分。

続く。

体調悪いので備忘録-転職編1

最近体調が悪いんだけど、これは色々なストレスとあとはクビをポキポキやりすぎてクビがおかしくなり、それが目までまわってきている、という状況のようだ。

あと、もう一つの理由はきっと転職したことにある。初めての転職だったこともあるのかもしれないのだけど、新しい環境に順応しようとする無意識の努力によるストレスは意外とあるはずなのだ。

ちょっとまたシリーズもので書けるかどうかわからないけど、今回転職する際に性懲りもなく色々考えたので、それを忘れる前に書き留めておいた方がいいかなと思った次第。

前回の回顧録は結局まだ終わってないんだけど冗長になったからコンパクトな編成で行くぜ。

目次は書きながら考えて、最後に編集するぜ。要望があれば。だからストラクチャーは特になし。書きなぐりだぜ。


Friday, 6 January 2012

暇なので、回顧録。19


1.6.大学院生活 (続き)


大学院が始まるにあたって、簡単に説明を。僕がとった大学院のコースはMaster of Commerceという日本語で言うと商学修士?にあたるものなのだけど、これは別に修士コースだから学士コースよりすごい、ということはなく、むしろ学士(Bachelor)を持っている人対象に短期間で重要な点だけ網羅しますよ、的なコースです。これ、勘違いされがちなんでまず始めにクリアにしてみる。


大学院にそもそも行くことになったのには主に二つ理由があって、一つには永住権の取得のため、二つ目は会計士コースに入るため。


一つ目は非常にわかりやすいと思うんだけど、当時(今はもう少し厳しいと思う)は会計周りの学位をオーストラリアの大学から取得してたら(ただし2年間のコースは必須)、ほぼ自動的に永住権が申請できて余裕で取得できました。IELTS(アイエルツ、英語のテスト、TOEFLのイギリス版?)とかHIVテストとかは受ける必要あるけど、基本的には簡単にとれました。


二つ目の会計士コースに入るため、ということについては、若干の説明が必要かと(もしかしたら既に回顧録のどこかで記載されてる可能性もあるけど、もう一度書くほうが全部読み直すより楽と判断してぶっこむ)。オーストラリアにはCPAとCAという二つの会計士の資格があって(もう一つくらいあるという話も聞いたことあるけど、基本的にはこの二つだと思う)、うちの雇用者は基本的にCAをとることを推奨している。CA、というと日本のみんなはいまや使われない「スッチー」ことCabin Attendantを想像することが想像に難くないのだが、残念ながらそんなセクシーなことはなく、Chartered Accountantの略称である。


CPAとCAの何が違うのっていう論議はWikipediaかどこかのまとめにまかせるとして、とにかくCAをとらないといかん、という状況で、CAのコース(CAの資格を取得するために必要なコース)に入るためにはオーストラリアの大学(もしかしたら国外も可かも-でも僕はオーストラリア国外で会計関連の勉強をしたことがないので無関係)で決められた科目を履修していることが求められるのでした。


他の理由としては、英語がいまいちな自分が職場でソフトランディングすること。これは実は後々思うことなんだけど、非常によく機能した。つまり、大学院が終わる頃には英語は若干まし、社内のシステムについては理解している、会計・税務を実務と平行して勉強できる、という点。


ところで、当時というか今もかもしれないけど、同じコースをとっていた人の約9割はアジア人(オーストラリア人でないアジア人)、日本人は僕一人、おそらくメインランドチャイナが7割くらいは占めていた(と思う)。そこから推測するに、一つ目の目的(永住権取得)が大きなAttractionになっていたのは間違いないと思う。


さらに脱線するけど、留学生(要は、市民権もしくは永住権を持っていない人)の授業料は高い。当時でも高かったけど、今はもっと高い。確か当時1学期で8,000ドル、今はもう12,000ドルくらいだと思う。何かの統計で、鉄鉱石、石炭に続いてオーストラリアの輸出産業の3位に教育産業がランクインしてたけど、よくわかるよね。


授業中、中国に留学しに来たような不思議な空間が漂っておりましたとさ、、、。


続く。

暇なので、回顧録。18



1.6.大学院生活


随分間があきました。結構忙しかったのですよ。年末。8日まで休暇だけど、休暇中は時間が経つのがはやい、、、。


さて、大学院が始まる直前くらいまでについて書いたいた模様。というわけで今回から新しいSub sectionに。


大学院が2004年7月になりはじまりました。7月の終わりだったかな。憧れの海外の大学のキャンパスで交換留学とかじゃなくて勉強できるという喜びにうきうき、、、は特にしてませんでした。もうそのキャンパスいたことあったしね。そもそも入学式とかも何も行かなかった気がする。


どちらかというと、人生初の正規被雇用者として会計事務所で働き始めたことの方が大きい出来事で、そっちにアタマがいっぱいいっぱいでした。


前回大学院が始まるまでの3ヶ月間はうんちみたいな仕事をさせてもらっていた、という風に書きました。これは雇用者を責めているわけではなく、自分がうんちみたいな仕事しかできない(会社のシステムもわからない、会計も税務もはっきり言ってベース知識ほぼゼロ)上、語学学校はビザの関係上(学生ビザの場合)、ある程度の出席日数を要する(8割以上の出席が求められた気がする)ため、毎日午後3時出社とか、今から考えれば周りの人はホント使えない上使いづらい人間だったわけです。


大学院が始まってこれが少しはまともになるんだけど、それでも学期中はフルタイム(つまり普通の大学院生が取る授業数(通常4クラス)をとる)で勉強することがまたしても学生ビザ上求められるので、ツメツメで授業を入れても週3日働けるかどうか。まぁどっちみちビザの制限上、学期中は週20時間までしか働けないんだけどね。


毎日午後3時から出社、というのもひどい話なわけだけど、週2日半しか会社にいない、というのも仕事を振る立場からすると非常に使いづらい。ちなみに、英語いまいち、会計・税務いまいちのステータスは劇的に変化するわけもなく。というわけで、うんちみたいな仕事は続くわけだ。


もう少し後で業務内容には守秘義務にかかわることを除いて説明するとして、この時点ではうんちみたいな仕事、というのは自分ができる最大限の仕事であったと言える。給料は非常に低かったけど、お金をもらっている以上、少しでも役に立ちたいと思う純粋な気持ちがそこにはありました。空回りしてたけど、バリュー低い仕事(コピー取りでもファックス送信でも)でもそれで他の人がバリュー高い仕事ができる時間が増えるなら喜んでやりました。特に始めの半年はこんな感じで、自分ができる簡単な仕事をとにかく任せてもらうために必死こきました。あとは事務所ないでの自分のキャラの確立ですな。これも英語できないときついんだ。


その頃お世話になっていた日本人の先輩とは今でも連絡をとってます。怖かったけど、どこかフェアな人だったなぁと思います。そして、迷惑おかけいたしました。すみません。


結局大学院のことにはほとんど触れなかった。そのうち書きます。


続く。