Sunday, 28 April 2013

再開

特に思うところはないのだけれど、少々書くのを再開することにする。徒然としたものにしすぎないことに気を使おうと思うのである。

過去にここで何を書いていたかはよく憶えていないのだけれど、徒然と思うところを綴るのが基本姿勢ではあった。

30歳を過ぎてオーストラリアの大学の法学部に戻ることになったわけだ。法律の知識の取得・関連するプロトコルの学びはもちろん重要なことだけど、それ以上に、物事の要点を特定の文脈で正しく解釈し、解釈したことを極力正確に第三者へ伝える、という能力を育む場である、というのが今の理解だ。

僕の母国語は日本語で、当然授業やTutorial(Discussion等を行う)は英語で行われる。論理的に考えることについては言語はどのブランドの靴を履くか、という程度の問題で、合う・合わない、ということはあるが、そこまでCriticalではないと考えている。だから、きっとここで日本語を書くことは僕の日本語能力の維持と、論理的な文章の書き方の取得にもきっと役に立つことだろう。

フォーマットについては徒然はやめるものの、内容については、やはり徒然としていたほうがいいかと思っている。先に内容のテーマを決めて達成できたためしがない(自分が興味があるテーマよりも、かっこいいと自分が思ってしまうテーマにしがちだからだ)。

さらに、継続させるためのモチベーションとして、ブログサイトに登録してみました。ちょっとやりすぎか!


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Saturday, 20 October 2012

体調悪いので備忘録-転職編3

転職編2を書いてから、放置したことも忘れていたわけだけど、また体調が実際に悪くなったこともあり、もう一度書いてみる。働き始めてから半年が過ぎたこと、日本へ一度帰る機会があったことから、タイミング的にはとてもいいタイミングだと思われる。忘れるべきじゃないことを忘れてたり、勘違いしがちな状況で、考えをまとめる、という作業は実に有用な気がする。物忘れがひどくなりつつある最近は特に。

まず、転職を決めたときのことを思い出してみる。

英語

オーストラリアに来たのは偶然の産物であるが、そもそも「海外」(この場合、ニアイコール英語)に興味を持った理由は、圧倒的な劣等感(これが、前述したプロムにおける劣等感なのか、多くの日本人がそもそも持つと僕が勝手に思っている「白人」「英語」「アメリカ人」に対する劣等感なのかはわかりませんが)です。当時そこまで言語化できていたかわからないけど。

会計事務所時代は、働き始めた背景を考えれば当然のごとく、特に後半は日系のお客さんの仕事を多くやらせてもらっていました。給料をもらっている以上、教育機関ではないわけで、自分がどういう価値を提供できるか、という点で考えても至極当然です。お客さんにも恵まれ、文化がクロスする中間点で、職務内容についても文化・言語の橋渡しと専門分野の仕事の両方をさせてもらっていました。ただし、一点ずっと気になっていたのは、この仕事を自分の意思で「選んだ」わけではない、という意識、つまり「決意」の欠如です。

好き・嫌い・いい仕事・つまらない仕事、という軸ではなく、自分で選んだことかどうか、という軸の問題です。この軸は、自分が他の場所でも働くことができるか、ということをまず証明した上でようやく振り返ることができる軸だと常々感じていました。ただ、今の状態を抜ける自信も特にない。

ちなみに、大手会計事務所のパートナーになっていく、というキャリアもありますが(そしてそんなに簡単なことではない)、自分がそのキャリアパスに乗るには、上でも記した「決意」が必要になることは間違いなく、その中で「選ぶ」ということができない限り、決意を持つことはできないと感じていました。

というわけで、今の会社からオファーをもらったときは素直にすごく嬉しかったです。自分は選択することができるんだ、と。ここで自分は日本人としてではなくて、一個人として、その国で優秀な人が多くいる組織で成功できるようにがんばって、自信ができたらその後のことはその時考えよう、と思っています。ちなみに、これは、面接でも言ったことです。

ユニークなのはどちらだ?

これも、いいか悪いかは別として、常に僕の中で持っている軸です。友人の中で自分のことをどうやって差別化していくか、という点。

このくらいの年齢になると、高校生までリニアな関係であった(もしくはそう信じていた)上下関係(成功・失敗)がかなり多様化してきます。つまり、例えば東大理科3類に現役で入った人は、そうじゃない人よりもより優秀である、というような単純な軸はもうない。これに入れ替わるのは収入かもしれないし、社会に対するインパクトかもしれない。有名かどうかということかもしれないし、家族が団欒できる生活をしていることかもしれない。美人な彼女が何人もいることかもしれないし、一般的にリスペクトされる職種についていることかもしれない。

同じような軸で僕が常に考えてしまうのは、高校の友人の中で、自分はユニークな存在でいることができているか、です。結論から言うと、日本人の会計士は意外と海外には多い。特にアメリカは大量の日本人部隊がいると聞きます。パートナークラスにまでなれば「ユニーク」ではあると思いましたが、上述通り、違う理由でそのキャリアパスは少なくとも現段階ではないと思っていたので、今の仕事のほうがユニーク度が高い、と判断しました。

その他

給与・職種も副次的な要因ではありました。それなりに給与もあがって、以前から会計事務所内でも希望していた税務チームに入れるということです。でも、やはり振り返ってみれば主たる理由ではなかったと思います。



Saturday, 5 May 2012

体調悪いので備忘録-転職編2

去る2012年3月に、僕は8年近く勤めた会計事務所を辞めて今度は資源会社の税務部門に転職した。

非常に直線的に進んできた僕の大学生までの人生を、結果としてやや斜めに逸らすように転換したのが、オーストラリアでの、というか僕にとって人生で初めての「就職」だった。小学校・中高・大学のどれよりも長い期間を過ごしたその場所を出る、ということはそれ自体がなかなかのできごとだったと思う。ちなみに転職の「仕方」、および転職先としては、オーストラリアでは普通であり、特段珍しいことではない。それが第三者に起こっている限りにおいては。

ここしばらくで下した比較的大きめな決断としては、それこそオーストラリアで就職(移住)、結婚、自宅購入などがあるのが、それらの決断と比べると異色の決断だった。通常、大きい決断ほど決断に時間は使わないのが常だった。オーストラリアに交換留学に来るときも、こちらの会計事務所で働くことになったときも、結婚も、自宅購入も、全部ほぼ迷いなく直感で決めた。直感というのはあまり適切な表現でなく、「損こいても大勢に影響を与えないことはないだろう」という信じることができるのが容易かった、というべきなのかもしれない。

いや、これも適切でないかもしれない。少なくとも結論は比較的簡単に出ていた気がする。つまり、自分個人としてはもっとも適切な解はこれである、ということ。だから、あまり考えることはなかった。むしろ、考えたのではなくてよく悩んだ。自分以外の人間関係、利害関係が関わるため、どのように、どのようなインパクトで周りの人たちに影響を与えるかクリアじゃなかったためだ。自分の人生だから自分の生き方は自分で決めるべきだし決めることができるべき、とは理解できるものの、自分の生き方が第三者に与えるマイナスの影響は最小限にする責任は当然ある、、、。何よりも今まで築いてきた人間関係を壊すことがあったらいやだ、というまさに二兎を追う自分。

続く。

体調悪いので備忘録-転職編1

最近体調が悪いんだけど、これは色々なストレスとあとはクビをポキポキやりすぎてクビがおかしくなり、それが目までまわってきている、という状況のようだ。

あと、もう一つの理由はきっと転職したことにある。初めての転職だったこともあるのかもしれないのだけど、新しい環境に順応しようとする無意識の努力によるストレスは意外とあるはずなのだ。

ちょっとまたシリーズもので書けるかどうかわからないけど、今回転職する際に性懲りもなく色々考えたので、それを忘れる前に書き留めておいた方がいいかなと思った次第。

前回の回顧録は結局まだ終わってないんだけど冗長になったからコンパクトな編成で行くぜ。

目次は書きながら考えて、最後に編集するぜ。要望があれば。だからストラクチャーは特になし。書きなぐりだぜ。


Friday, 6 January 2012

暇なので、回顧録。19


1.6.大学院生活 (続き)


大学院が始まるにあたって、簡単に説明を。僕がとった大学院のコースはMaster of Commerceという日本語で言うと商学修士?にあたるものなのだけど、これは別に修士コースだから学士コースよりすごい、ということはなく、むしろ学士(Bachelor)を持っている人対象に短期間で重要な点だけ網羅しますよ、的なコースです。これ、勘違いされがちなんでまず始めにクリアにしてみる。


大学院にそもそも行くことになったのには主に二つ理由があって、一つには永住権の取得のため、二つ目は会計士コースに入るため。


一つ目は非常にわかりやすいと思うんだけど、当時(今はもう少し厳しいと思う)は会計周りの学位をオーストラリアの大学から取得してたら(ただし2年間のコースは必須)、ほぼ自動的に永住権が申請できて余裕で取得できました。IELTS(アイエルツ、英語のテスト、TOEFLのイギリス版?)とかHIVテストとかは受ける必要あるけど、基本的には簡単にとれました。


二つ目の会計士コースに入るため、ということについては、若干の説明が必要かと(もしかしたら既に回顧録のどこかで記載されてる可能性もあるけど、もう一度書くほうが全部読み直すより楽と判断してぶっこむ)。オーストラリアにはCPAとCAという二つの会計士の資格があって(もう一つくらいあるという話も聞いたことあるけど、基本的にはこの二つだと思う)、うちの雇用者は基本的にCAをとることを推奨している。CA、というと日本のみんなはいまや使われない「スッチー」ことCabin Attendantを想像することが想像に難くないのだが、残念ながらそんなセクシーなことはなく、Chartered Accountantの略称である。


CPAとCAの何が違うのっていう論議はWikipediaかどこかのまとめにまかせるとして、とにかくCAをとらないといかん、という状況で、CAのコース(CAの資格を取得するために必要なコース)に入るためにはオーストラリアの大学(もしかしたら国外も可かも-でも僕はオーストラリア国外で会計関連の勉強をしたことがないので無関係)で決められた科目を履修していることが求められるのでした。


他の理由としては、英語がいまいちな自分が職場でソフトランディングすること。これは実は後々思うことなんだけど、非常によく機能した。つまり、大学院が終わる頃には英語は若干まし、社内のシステムについては理解している、会計・税務を実務と平行して勉強できる、という点。


ところで、当時というか今もかもしれないけど、同じコースをとっていた人の約9割はアジア人(オーストラリア人でないアジア人)、日本人は僕一人、おそらくメインランドチャイナが7割くらいは占めていた(と思う)。そこから推測するに、一つ目の目的(永住権取得)が大きなAttractionになっていたのは間違いないと思う。


さらに脱線するけど、留学生(要は、市民権もしくは永住権を持っていない人)の授業料は高い。当時でも高かったけど、今はもっと高い。確か当時1学期で8,000ドル、今はもう12,000ドルくらいだと思う。何かの統計で、鉄鉱石、石炭に続いてオーストラリアの輸出産業の3位に教育産業がランクインしてたけど、よくわかるよね。


授業中、中国に留学しに来たような不思議な空間が漂っておりましたとさ、、、。


続く。

暇なので、回顧録。18



1.6.大学院生活


随分間があきました。結構忙しかったのですよ。年末。8日まで休暇だけど、休暇中は時間が経つのがはやい、、、。


さて、大学院が始まる直前くらいまでについて書いたいた模様。というわけで今回から新しいSub sectionに。


大学院が2004年7月になりはじまりました。7月の終わりだったかな。憧れの海外の大学のキャンパスで交換留学とかじゃなくて勉強できるという喜びにうきうき、、、は特にしてませんでした。もうそのキャンパスいたことあったしね。そもそも入学式とかも何も行かなかった気がする。


どちらかというと、人生初の正規被雇用者として会計事務所で働き始めたことの方が大きい出来事で、そっちにアタマがいっぱいいっぱいでした。


前回大学院が始まるまでの3ヶ月間はうんちみたいな仕事をさせてもらっていた、という風に書きました。これは雇用者を責めているわけではなく、自分がうんちみたいな仕事しかできない(会社のシステムもわからない、会計も税務もはっきり言ってベース知識ほぼゼロ)上、語学学校はビザの関係上(学生ビザの場合)、ある程度の出席日数を要する(8割以上の出席が求められた気がする)ため、毎日午後3時出社とか、今から考えれば周りの人はホント使えない上使いづらい人間だったわけです。


大学院が始まってこれが少しはまともになるんだけど、それでも学期中はフルタイム(つまり普通の大学院生が取る授業数(通常4クラス)をとる)で勉強することがまたしても学生ビザ上求められるので、ツメツメで授業を入れても週3日働けるかどうか。まぁどっちみちビザの制限上、学期中は週20時間までしか働けないんだけどね。


毎日午後3時から出社、というのもひどい話なわけだけど、週2日半しか会社にいない、というのも仕事を振る立場からすると非常に使いづらい。ちなみに、英語いまいち、会計・税務いまいちのステータスは劇的に変化するわけもなく。というわけで、うんちみたいな仕事は続くわけだ。


もう少し後で業務内容には守秘義務にかかわることを除いて説明するとして、この時点ではうんちみたいな仕事、というのは自分ができる最大限の仕事であったと言える。給料は非常に低かったけど、お金をもらっている以上、少しでも役に立ちたいと思う純粋な気持ちがそこにはありました。空回りしてたけど、バリュー低い仕事(コピー取りでもファックス送信でも)でもそれで他の人がバリュー高い仕事ができる時間が増えるなら喜んでやりました。特に始めの半年はこんな感じで、自分ができる簡単な仕事をとにかく任せてもらうために必死こきました。あとは事務所ないでの自分のキャラの確立ですな。これも英語できないときついんだ。


その頃お世話になっていた日本人の先輩とは今でも連絡をとってます。怖かったけど、どこかフェアな人だったなぁと思います。そして、迷惑おかけいたしました。すみません。


結局大学院のことにはほとんど触れなかった。そのうち書きます。


続く。













Saturday, 31 December 2011

トライアスロン1

いい加減解雇録ならぬ回顧録を書くのが面倒になってきて、ドラフトの状態で眠ったままになってきたので、気分を変えてトライアスロンについて書いてみる。

最近トライアスロンを始めた。まだ超初心者だけど。理由は下記のような感じ。

1.中学1年生のときの担任(体育教師、体操元オリンピック代表候補という噂)に、「たむこーはトライアスロンとか向いてるよな」、と言われたこと。結果バスケットボール部に所属w

2.おそらくちゃんとトレーニングしたらある程度ぼちぼちやれそうな気がすること。水泳は小学校のときは市で優勝したことがあり(高校の友人のK澤氏のように全中上位になるような実力はもちろんない。さらに、速かったのは平泳ぎであり、クロールは平泳ぎより遅かった)

3.自転車はもともと乗るのは好き。太ももも太いからなんとかなるのではと思っていること(実際にスピードを出してこぐのは足だけじゃなくて全身の筋肉を要する上に、タフさが全く足りない問題あり)

4.走るのも昔は速かったこと。ただ懸念点は短距離の方が比較的得意だったことか。中学1年生のマラソン大会で過呼吸で倒れてから、長距離を全力で走るのにやや抵抗あり。

5.ゴルフ、サーフィン、テニス等色々なスポーツに手を出しすぎて、全て下手なままであり、まずいと思っていたこと(バスケットボール、空手以降自分でぼちぼちできると言えるスポーツが皆無)。

6.比較的年をとっても続けられる(もしくは続けている人がいる)スポーツであること

7.痩せるためのモチベーション(18歳時点で、体重73kg体脂肪率7%だったのが、30歳時点でマックス体重95.5kg体脂肪率計測不能に陥った)

いつかIronman Race出たいです。でも自転車のこととか自分の体のこととかもう少しわかってないといけんね。


Wednesday, 9 November 2011

暇なので、回顧録。17

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)

 繰り返しになるけど、「暇なので」と題に書いてあるが必ずしも暇ではないです。でもまぁ書く暇がある、という意味では暇か。結果としてすぐ書くスピードが遅くなるので、もしも続きが読みたいという人は是非催促してください、、、。

 とにかく僕のオーストラリアでの2回目の生活は始まりました。レズビアンの彼女たちとの居候の期間は終わり、僕の友人の友人(だったような気がする)の家で今度は住むことになりました。Greenslopesというところ。ここは、いい思い出がないので書きたくないのですが回顧録なので憶えている限り書いてみようと思います。

 唯一よかったのは家賃。週70ドルでした。今から考えるとものすごい安いけど、当時の感覚でも安かったです。一つ部屋があって、一応机とベッドがあって。あとは、基本的に非常にいまいち。というか、一緒に住んでた‘友人の友人’がその妹と一緒に住んでいて、僕はそこの空き部屋を借りるような形になっていたのですね。あぁ、何がいやだったかというと、まず、多勢に無勢(ようは、僕の立場は居候に極めて近い形であり、住空間に対する権限がほぼゼロ-という風に少なくとも僕は感じていました)。あとは、出来上がった空間への侵入者的な扱い(を受けているように感じていた)。ようは、自分の部屋以外にいるときにとにかくリラックスできないわけですよ。話すこともないし。てかまぁ英語的に微妙だったし、こっちから話しかけるような感じでもなかったのが原因なのかもしれないですが。あと、猫がいたんだけど、一度猫のう○こを素足で踏んでしまったことも。今のうちの猫はかわいいけど、あの猫は憎い。憶えてないけど。さらに、大学までも遠かったし、、、(車がない当時の感覚では特に)。

 その頃、大学院が7月に始まるまで(オーストラリアでは、大学は2学期せいで、1学期目は2月の終わりから6月の途中まで、2学期目は7月の終わりから11月の途中までで、1学期目からでも2学期目からでも入学可能)、大学の付属の英語学校に3ヶ月だけ通っていました。

 一瞬ここで脱線して、当時の英語学校感について少々。今はそこまで思わないのですが、とにかく英語学校というものに対して、「2流」という印象を持っていました。英語学校いくこと、かっこ悪い、が「いじめ、かっこ悪い」並みにしみこんでいたわけです。これは、なんでだかなんとなくわかる。おそらく理由として、友人で英語を話せる人がいる、英語で勉強してる人がいる、という事実と比べて英語「を」勉強する、ということが段階として「下のこと」だという思いがあって、逆にそういう風に自分が思っているものだから、「下」に思われたくない、という動機で英語学校に行きたくなかったわけです。人に聞かれても、「大学院が始まるまでの間だけだし」みたいな感じですな。ようはかっこつけですよ。英語できないんだから(てか、マジ自分で言うのもほんとアレだけど自分の学歴でこれって日本の教育どうよ!って思いますけど)、できないなりに恥かけよ、って今は思うんですけどね、、、。

 ちなみに、英語学校に実際に行ってから大分印象が変わりました。もちろんある程度上のクラスだったから、っていうこともあるのだろうけど、意外と役に立ちそうだなぁと当時思って、それから英語学校に対する偏見は特になくなりました。まぁその時点に至るまで英語学校というものに通ったことがない、という事実にどこか誇りを持っていたようなところもあるので、それも偏見の原因になっていたのかもしれません。

まぁ、とにかく英語学校に3ヶ月通って、その間はうんちみたいな仕事を会社でさせていただいておりました。

続く。

Sunday, 6 November 2011

暇なので、回顧録。16

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)


無事に?ブリスベン空港へ到着し、日本人の上司の車に乗せてもらい、家まで送ってもらう、、、けど家はどこ?


実は、交換留学生時代に一緒に住んでいたシンガポール人のカップルのところに泊めてもらうはずだったのですが、確か出発の数日前に確認したらテスト期間中だから難しい、とのこと(まじか!てか、今思うとちょっとひどい。でもまぁいっかって思ってしまう私、いまいちなのかどうなのか、、、)。今の会社が確か始めの2週間分くらいのアコモデーション代は持ってくれるような契約になっていたのですが、チキン日本人の僕は、それを「申し訳なく」思い、そんなことにお金は使わないことに。だってこんなペーペーがホテルにしばらく住むとかってお金の無駄でしょ。ちなみに今だったらこういう正当な権利はちゃんと行使する。不必要でない限り、、、。


とはいえ、僕を送り届けたあとで上司も出勤しなければいけないわけで、したがって僕をどこかで落とす必要があるわけです。空気を読んだ僕はとりあえずUQ(クイーンズランド大学)に行って下さい、といい、そこからは適当になんとかします、とノタマウ。


UQのキャンパスにポツ-ンとスーツケースと僕。宿のことは一忘れし、あー久しぶりだなぁ、と。これが来豪イッパツめだったらかなりてんぱってだろうけど、なんとかなるだろう経験値はだいぶ上がっていたのであった。まぁ所詮最悪ホテルにいけばいいだけだし、つまりお金の、しかも大したことない金額の、問題なのだ。最悪ケースでも。最悪のケースで抱えられるリスクかどうかを考えてリスクをとる、という生き方はこのあたりで始まった、、、。


さて、とは言うものの一人でその瞬間どうこうできるわけでもないので、UQでお世話になったU先生のオフィスへとりあえず行ってみる。何言ってるんだ、と思ったに違いないU先生は、ナイスにしてくれ、彼女の講義に参加している学生で、スペアの部屋がある学生がいないか聞いてくれると言う。この時点で、ラッキーと思いつつ、見つからなかったらどうしよう、という思いはゼロ。U先生のオフィスのフロアで2,3時間寝る。当時はまだカンタス便で成田→ブリスベンの直通便があったけど、エコノミーはやはり寝られない(といってももちろんビジネスは乗れない)。


結果的には一人部屋が空いている、という女の子がいて、授業のあとU先生にその子の家まで送ってもらうことに。ほらね、なんとかなるでしょ、と心の中で思いながら家に到着。女の子二人がすんでいるタウンハウス(アパートと家の中間みたいな奴)で、場所はIndooroopillyという、ブリスベンのCBDから電車で15分、UQまではバスで、、、同じくらい?のところでした。かといって、そこに長居できるわけではないので、新たな住処が見つかるまでの一時居住。


日本語を勉強している女の子だったので、アサインメントを手伝ったり(というか、それはCheatだろ!と思うんだが)、一緒に夜遊びにいったりしつつ、まずはそこからとにかく会社には出勤?はじめました。出勤といっても、たいしたことはやりませんでしたが、、、。ところで、後になってわかることですが、この女の子二人は同性愛者でした。そう、オーストラリアには同性愛者いっぱいいるんだよ!


続く。





Saturday, 5 November 2011

暇なので、回顧録。15

1.5.大学卒業後、再渡豪 (続き)


ブリスベンの空港には、日本人の上司が迎えにきてくれました。ここで一つエピソードが。ただし、このエピソードはかなりの人数の人が知っているので今更感があるかもしれません、、、。


空港でも依然極度のキョドリを見せていた僕は、おそらく周りから見ても極度のキョドっているのがあからさまだったと見え、税関の申告場所でスーツケース全開示を求められました。「オーストラリアには何しに来たんだ」って聞かれて、勉強と仕事ですって答えたわけだけど、これは完全にXな答え。勉強って言わなきゃいけなかったです。今思ったら。学生ビザだったしね。まぁ学生ビザでも働けるから問題はないんだけど。日本はまだオーストラリアの移民局的にノーマーク的な位置づけだけど、「もぐりこもうとしてる」と思われかねない国からの学生だったら、まずかったでしょうな~。


スーツケースは全部ひっくり返されて大変なことになりました。ここで問題発生!23歳、しばらく彼女がいないことを覚悟していたワタシは大量のアダルトDVDを持参していました。大量っていっても10枚くらいだけど。この大半は高校の友人T木氏からもらったサンプル、、、。なんていうんだろこういうの。旅の祝いだもってけドロボーみたいな感じだったのかな、、、。当然発見されるわけです。担当官に。


担当官「なんだこれは」
田村「、、、ポーンです、、、でも、違法じゃないよ、合法の奴。合法の奴、、、」


と必死に自己弁護をする。いや、本当に合法のやつだし!


結局担当官は全てのアダルトDVDを持って立ち去り、僕がまぁしょうがないかーと思っていた頃(確か20-30分くらい待たされた-この時間については諸々の憶測をよんだ)、帰ってきて全部戻してくれました。


というわけで、そもそも朝のブリスベン空港はごった煮状態で混むのに、こんな出来事があり入国ゲートをくぐることができたのは相当後のことになってしまいました。空港の到着フロア(よく旅行のツアーの人とかが旗とかもって待っているところね)で頭をかきかき日本人の上司に挨拶。彼は、僕があまりにも出てこないから、日程を勘違いしたと思い、もう帰ろうかと思っていたとのこと。


日本人の上司「なんでこんなに時間かかったんだ?」
田村「いや、、、ちょっと言えないっす」
日本人の上司「言わなかったらクビだー今すぐ帰れー」(と言ったかは定かではないが、後日談-たぶんこんな言い方ではないw)
田村「いや、、、ちょっとエロDVDが見つかっちゃいましてw」


というわけで、大阪出身の彼にはこの反応がウケ、事なきを得たわけですが、そう時間がかからないうちに、ブリスベンの日本人ビジネスコミュニティーでは、僕は「DVDの彼」として認識されることになり、会ったことがない人からも「あーキミがあのDVDの!」と言われるまでの有名人?に短期間のうちに成長するわけです。結果、おいしいネタになったわけですが、税関は気をつけたほうがいいですね。


続く。

Friday, 4 November 2011

暇なので、回顧録。14

1.5.大学卒業後、再渡豪


おそらくもろもろの送別会(のようなもの)をしてもらった後で、渡豪する日がきた。といっても、正直これもまたよく憶えてない。ぜんぜん回顧できてないな、、、。あの時は親も一緒に空港まできてくれたんだったけな。高校のバスケ部の友達(+後輩一人)が空港に来てくれたのは憶えてる。というか、その写真があったからなんだけどね。写真のおかげでなんとなく憶えてるんだよな。ていうか、本当に憶えてるのか写真のおかげで事実を記憶しているのか、どっちでしょう。


ふと思い出すのが、高校の友人のN田氏がアメリカの大学に行くために飛び立つとき、これまたバスケ部の友達が成田空港に大挙して見送った気が。このときは見送る側だったけど。そんでもって彼が出国ゲートに消えたあと、みんなで屋上にいって適当に飛行機を選んで、彼がその飛行機に乗っていると仮定し、その飛行機に手をふって空港をあとにした、、、。そんなエピソードがありました。


さて、飛行機の中で何を考えていたか、というと、確か交換留学に行くときに飛行機で感じていたことの差を考えていたような気がする。交換留学のとき、1年間日本から離れて暮らす、ということに対して、ものすごい長い期間だと思っていたのが、2回目(しかもほぼ永住の方向)には逆にあまりなんとも感じなかったのだった。ただ、それよりも、初めて会社で働くということ、そして英語で働くということに対してびびりまくっていたのは当然のことであった、、、。


留学したことがある人ならわかると思うけど、特にある程度の年齢になってからだと特に、1年で自分が期待してたほど言葉はましにならないってこと。完全にスラムダンクの桜木花道のセルフイメージ状態ですな。いや、セルフイメージと実際の姿との差に辟易して、焦って、ということ。桜木花道も地道なトレーニングでシュート練習をしたのと同様、地道な作業によってしか向上しないもの、というのもある、、、。さらにいうと、10年いても地道な作業を怠ると何も変わりません。うーん。偉そうだw 完全に自戒をこめたメッセージになってしまった。


とにかく、いいたかったのは、いくらTOEFLで300点中270点以上とってても、だめなものはだめ、ということです。1年間交換留学した後でもね。もちろん以前よりはましになったとしてもね。電話するときとか電話かかってきたときの恐怖感、わかる人いっぱいいるでしょう。あの恐怖感を感じながら飛行機に乗っていたのです。


続く。

Thursday, 3 November 2011

暇なので、回顧録。13

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


「暇なので、回顧録」と書いた手前、特に暇でもないと書く気がしなかったのだけど、今日友人のK澤氏から書けという要請が来たので書くことにします。


正直どこまで何を書いたか覚えていなかったんだけど、実はちょっと前のを読み返すと、そもそも何を書いていいかよくわからなくなってきていたのと、ある特定の時期についての記憶が非常に曖昧になっていることがあり、ようはストラクチャーだって書けなくなってきたのも原因だった、、、気がする。でもとにかく書いてみる。書き始めると意外と思い出すものだ、、、。


2度目の留学件就職(というか移住)という時期は、混沌としてました。いや、だからよく覚えてないんだな。混沌の要素としては、卒論(休学届けを9月に出して、10月に撤回したものだから、準備期間がほぼなし)、バイト(というか、前回話したオークションサイトの件)、英語不安(前回さらっとTOEFL受けなおした、と書いたけど、そういう問題じゃぁありません)等。これは勉強・仕事とは関係ないのだけど、高校の同窓会の開催(結果的にはよかったけどややぐだぐだな幹事でした)もある時期の忙しさを助長したかと。


卒論については、大学のPCルームで他の人と一緒に製本してた、、、ような記憶が。バイト、については前述のとおり。英語不安については、、、これまた覚えてない。とにかく混沌として充実してた、という思い出だけはありますな。これ、全然回顧できてないね。面白いくらい過去のことを忘れている、という事実。そんな昔じゃないのに。


うんうんうなっても覚えてないものは覚えてないものは覚えてないので、そろそろもう豪州に帰ってきたときの話をしようと思いますが(特にカテゴリーを勉強・仕事、としているので、あまりエピソードなし)、一つだけ今思い出した。


実は僕は大学1,2年の教養学部では成績微妙者だったのですが、3年生になってからまじめに勉強したせいか、成績は非常によかったのです。なぜいい成績をとろうと思ったかについては前述したと思うので再びは触れませんが(実際後で役に立ってると思う)、とりあえず同じ学科の中で成績はトップ(ただしタイ)でした僕のいた学部では、持ち回りの学科の成績トップの人が卒業証書を代表でもらうことになっている(らしい)のですが、僕はどうやら平均ではトップでも『優」の数がもう一人のトップの人より少なかったので(これは交換留学のときの単位が互換されたされたときに日本の大学で成績がつかなかったので)、残念ながら代表でもらうことにはなりませんでした。


まぁどうでもいい話なんですが、そいういうわけで、それだったらいいや、と思って大学の卒業式には出席せず、謝恩会に顔を出して卒業証書だけもらいにいきました。きっと意外としこしこ勉強したのを認めてもらいたかったんでしょうが、今は卒業式でてもよかったのかなぁとは思います。でも、これはその後取得する学位・資格すべてに通じることですが、卒業式とか資格授与式とかにはまったく興味が持てず(10%くらいそれをクールだと思っているフシは否めませんが)、結局全部郵送してもらってます。


でも、ひそかに卒業証書を学部代表でもらうってのはやってみたかったなー。


続く。

Monday, 17 October 2011

暇なので、回顧録。12

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


さて、とりあえず書類諸々の話(雇用契約書とかそういう奴ね)は終了し、ただ今度はオーストラリアで会計士の資格(多くの会計事務所では、Chartered Accountantをとらされます。企業の経理の人は、CPAが多いように思います)をとるために、オーストラリアの関連する学位が必要で(特に僕の場合、日本の大学の学科がほぼ無関係なので)、また願書だのなんだの、という話が必要になりました。そして、TOEFLももう一度受けなおし。さらに、前回(交換留学のとき)みたいに、英語が全くできないんじゃいくらなんでもまずいだろう、ということで(留学の後日本にしばらくいた間は、比較の問題でできると思ったり、あとは1年留学していた、という事実自体と自分の駄目さに向き合わなくていいばかりに、意外と大丈夫だと思いがち)、どしたもんだ、と思っていました。


こっちの準備のほうはさておき、そして実際の卒論の準備には、触れることなく(触れる気もなく)、前述の通り、僕が働かせてもらっていたベンチャー企業は、二人の某コンサルティングファーム出身の人が立ち上げえた会社でした。で、フルタイムが難しくなったため、じゃぁフルタイムじゃないという前提で、そのうちの一人のお手伝いをすることになりました。当時、彼は個人としても(どのような形態で仕事をとってきていたか、とかは知らないですが)コンサルティングを行っていて、これはもう時効だろうと勝手に決めて話してしまいますが、とあるオークションサイトの立ち上げをするプロジェクトに関わっていました。そのプロジェクト自体の内容を詳しく書くことにはあまり意味がないと思うし、そしてよくは覚えてないので書きませんが、ようは、そのプロジェクトの中の一部に関するリサーチ業務を行っていた(のを手伝った)ということなんだと思います。


そう長くはたたないうちに、リサーチ等の結果判明した何らかのクリティカルな法的な理由で、このオークションサイトのプロジェクトが座礁して終わった、と記憶してますが、その過程で、イスラエル人、アメリカ人とミーティングしたり、弁護士とミーティングしたり、そういう機会があるたびに連れて行ってもらって、じゃぁその結果何か具体的なスキルを得た、とかそういうことじゃないんですが、そういう世界が遠くに感じなくなるという意味でいい経験でした。銀座のセゾンカードがあるところのカフェでよくミーティングしたなぁと懐かしく思います、、、。


ところで、あまり大きい声で言える話ではないのですが(でもこれも時効だろう)、今の会社で働くことが決まってから、次の年の就職活動が始まる時期に合わせて行われるインターンシップに応募してみたりもしていました。実際面接に行ったのは一箇所しかないのですが。某コンサルティングファームのインターンシップの面接は、1,2次面接が普通の面接、3次面接がグループディスカッションでした。1,2時面接は普通に通過して、3次面接のグループディスカッションを行う段になりました。グループディスカッションというのは、どうやら御題を与えられて、それについてグループで話し合い、最後に自分たちが至った結論を報告し、その結果およびプロセスで合否が下される、というものでした。


結果から言うと、僕は通らなかったのですが(こう聞くと面接落ちてばっかりなみたいだなぁ)、振り返れば失礼なことしていたかなぁと思います。その時点で既に就職先は決まっていたわけで、その中で言い方は悪いけど遊び半分で受けていたのはよくなかったなぁと。その態度が結局落ちた原因だと分析しているのですが。まず、準備ゼロ。こういうことが行われる、とかそういうことに関する下準備ゼロで参加。次に、しゃべりすぎ。これも準備と関係あるのかもしれないんですが、自分が言いたいことだけをいいすぎ。さらに、不適切な言動が多かった。結論を報告する段に及んで、コマネチまがいのことをかました、という、、、。さらに、3人のグループの中には、京都から新幹線で来た人もグループの中にいて、彼は京都から来てトータルで1,2分しか口を開かなかったという話。わざとじゃないんですけど、深層で余裕かましちゃってたんだろうなぁと思います。決して褒められることではないですね。


続く。







Saturday, 15 October 2011

暇なので、回顧録。11

1.4.交換留学後-卒業まで (続き)


ベンチャー企業でやっていたことは、他の人に相談してからにする、と書いたけど、いずれにしてももう時候だろう(というか、別にConfidentialityが高いことをやっていたわけじゃないと思うし)ということで書くことにした。リスク判断は、今の仕事で一番学んだことですね。取れるリスクはとってよし。リスクゼロにするのは、いつだってコストが伴うのである。お金に限らず、時間とか、色々ね。


、、、とそこまで書いてから、何をしてたんだろうなぁ、というとよく覚えていないわけです。覚えていたのは、研修パッケージの営業をしていたこと。コールドコールから、フェア?みたいなものへの参加、アポ取り付け、アポ先へ訪問、など。ここでも実績ゼロ(受注ゼロ)のため、一切評価されるポイントはございません。ただ、経験としてはよかった。大学生で大手の会社に営業をしにいけるってやっぱりなかなかないじゃないすか。某M電気とか、某Tエンジニアリングとか某時計会社とか、結構いろいろ行きました。経験でよかったですむのはアマちゃんですがね。実際の営業の人は、受注ゼロだけど経験になった、じゃすまないしね。提案できる営業じゃないと、バリューだせないよね。営業はコンサル、っていうのはほんとだと思う。お客様に届けられるバリューの具体的な提示して、また具体的なイメージを沸かせる。そしてデリバリーはそのギャップを埋める作業。今の仕事でも一緒だけど、問題点の特定、新たなバリューの提示、が基礎なんだろうな。そして新たなバリューの提示ってやっぱ難しいと思うです。だってまわりとかベンチマークとかと比べて、じゃだめなわけでしょ。


あと、これまた印象に残ってるのは、とにかく3つ理由を言う、というトレーニング。3つ理由を言うと、それっぽく聞こえる、というのは世の人々は結構実践しているのでは。みんなでコンビニ行った時、とにかく3つ理由を言うゲームをやったなぁ。ゲームなのか、わからないけど、メリーポピンズに言わせれば、"In every job that must be done, there is an element of fun. You find the fun, and - SNAP - the job's a game!" ということなのである。ちなみに僕はメリーポピンズが好きで、マトリックスが好きで、サウンドオブミュージックも好きだ。


受注ゼロ実績のまま、色々あって、オーストラリアに戻ることになりました。


色々あって、ということはないんだけど、回顧録7で登場した今の会社の日本人の上司とも、メールで連絡を続けてました。何を書いてたかってきっと他愛のないことで、こんなことを今してる、だのそういうことです。あと、同時期に実は大学に休学届けも出していました。というのも、結局新卒採用の就職活動が始まる時期っていうのは決まってるわけで、卒業をもう1年遅らせて、当初の予定通り?投資銀行に行こうと思っていたんですな。投資銀行に行きたい理由なんて、給料が高い、入りづらい、すごいと思われる、そういう程度。それをあれこれ肉付けしてそれっぽく聞こえさせるのです。


(予断ですが、大学1年生の頃、家庭教師派遣会社-TRYみたいなところ-に面接しに行った時、なんで家庭教師をやりたいか、と聞かれ、お金です、と正直にいったら連絡は二度ときませんでした。そこで「自分が勉強してきたことで、今同じような勉強で苦労してる人の役に立ちたい」とか言えばよかったとは思うけど、そういう正解の回答っていやになっちゃう時期ってあるよね、、、。でも大人になったら-政治家を見てたらよく思うけど-尚更Politically Correct Statementを求められる。そう思うと、コミュニケーションの目的ってなんなのよ、って話になるね。コミュニケーションっていうのは、内容じゃなくてその事実と伝え方のほうがたいてい重要だって時もよくあるし、そのポイントにおいて真実を伝える、というよりは他の目的を達成するために内容が決まるtということもあるのかと)。


とにかく、休学届けは出してたわけです。それだけ。


丁度その今の上司とのメールのやり取りの中で、急にオーストラリアで働く気はあるか、ときかれました。びっくりしたけど、ダウンサイドないし(彼女も当時いなかったし失うものなし)、英語環境で、会計の仕事できて、今現在他にものすごいやりたいことがなかったし、すぐ行くと決めました。といっても、一応書類上の手続きはもろもろあったんですが。問題は、休学届けを既にだしていたので、それを撤回することでした。撤回は普通にできたんだけど、実はあと10日くらいで撤回が無理なタイミング(確か10月の半ばくらい)まで来ていて、それこそ卒論がやばし状態。急造で3,4ヶ月で仕上げ(ほんとに大したことない内容に当然なりましたが、、、)、卒業できることになったのですね。


ちょっと大学卒業からは遡って、一方で、オーストラリアに行くことを決めた時、ベンチャー企業については、卒論をするためということで、働くことをやめました。基本的にフルタイムで働いていたので、それを続けるのは無理があったから。ただ、フルタイムじゃなくて、その会社を僕の中学高校の先輩と一緒につくった人と、個人的に半ばバイト感覚で仕事することになりました。


続く。





暇なので、回顧録。10

1.4.交換留学後-卒業まで


6月に帰国後、2月に面接を受けていた会社と続きの面接を受けて、結果落ちた、という話はしました。ここで、若干計画が狂ってしまったので、どしたものかなぁということで、とりあえずよくわからないけど、そのとき丁度第一期生の募集が始まっていたロースクールに出願してみました。というか、適性検査みたいなやつですね。理系の学生として大学に入学して、いわば文転して(この理系・文系の区分けについては否定的な見方もありますが、その区分けについて話しているわけではないので、ここでは普通にコンセプトとして使用します)、留学して、しかもやりたいことよくわからない、と収集つかなくなってきてたわけなのです。かといって大学ももうすぐ卒業してしまうし、勉強は基本的に嫌いじゃないので(勉強をしなければいけない状況で、し始めるまでの時間は嫌いですが)、しがみつける何かにしがみつこうとした、というのおそらくほんとのところだったんだろうな。かっこはつくじゃないですか、一応。(いや、法律に興味がなかったわけじゃないけど、こういう側面は決して否定できない、ということ)


基本的に、法律経験者(法学部出身者ってことなのかな)以外は、3年制のコースにはいって、入学時には法律の知識は求められない、と。あと、基本的には論理性とかそういうののテストと、多様性?を重視するということで色々なバックグラウンドを持った人を募集するということで、いいんじゃない、と思ったわけです。論理性のテストっていうのは、昔小学生の頃よく読んでた「頭の体操」みたいな感じなのです。だから、そんなに大変じゃないというか、ゲーム感覚。こういうこと書くと、「なんだこいつは自分が頭いいっていうことを誇示したいのか」ととられがちでまぁそう思われたいという願望を残念ながら持っているのは否定できないのですが、そういうことじゃなくて、純粋にゲームみたいな感じなんですね。で、模試みたいのも受けてみたりしました。


一方、その頃今ではどうなってしまったかわからない同窓会サイト「ゆびとま」(このゆびとまれ、ってことですね)で、僕が中学1年生のときの高校3年生の先輩を発見し、なんとなくメールを送ってみる、ということをしました。実は今思えばここから今の奥さんと結婚する布石が打たれ始めていた、、、。今でも覚えているんですが(この台詞、意外と出てくる-でも、実は自分が覚えていることって、やっぱりあるポイントが多くて、全てが鮮明に記憶に残っているわけじゃない、ということを今回回顧録を書いててよく思います)、どこかの(覚えてるって言った割には場所を覚えてない)とんかつ和幸で、一緒にご飯を食べました。彼は、というか僕の周りの人は知っている人が多いと思うけど、学生のときバーやったり、某コンサル会社で働いて、その後その某コンサル会社の先輩と一緒に会社を立ち上げた人でした(具体的にどうこうっていうのはおそらく文脈にあまり影響しないので割愛)。


とにかく、時間あるならうちの会社で働いてみない、という話になり、その次の週から都内某所(オフィスは自宅兼)で突然働き始めることになりました。ここで何をしていたか、というのはまた後で書くとして、こう状況だった、ということ。


で話はロースクールに戻るんですが、実は模試の結果、最高学府合格可能性がA判定だったこともあり(これまたアレですが、たまには昔のつまらない栄光を話させてくれよ、という話、、、。つまらないのはわかってるんですけど、、、書かなくてもいいんじゃないか、という気もするんですけど、一応ネタとして書かせてください。あぁ俺駄目な奴。この辺りの葛藤ってみんなどうやって処理してるんだろう?すごいって思われたいっていうのと、それ、かっこ悪い、っていうののせめぎあい。いや、理想は、自分が何も言わずにすごいって思われたい。でも、言う言わずにかかわらず、他人の目を気にしてどうすんの?という内なる声。あぁぁぁ)、正直半ば目的を達成した気がして、あとそのベンチャー企業で働くことにもなったので、結局実際の試験は受けずじまいでした。


仕事の内容をどこまで書くのか、という点については、ちょっと他の人と相談してからにしますが(あんまり問題ないと思うけど、一応)、初めてバイト(いや、バイトみたいなものなんだけど)じゃない仕事っていう感じの仕事ををしてみた初めての機会でした。この頃知り合った人は、今でも何らかのつながりがあったり、仲良かったり、お世話になったり、これらの複合型だったり、、、。色々ですね。でも、一気に知り合いの種類が増えた気がします。仕事の内容を書かないとあんまり書くことなくなっちゃうな。お世話になってる割に、こちらからお返しができているどうか、というと全くなので、なんだか申し訳ない気がしています。


続く。

暇なので、回顧録。9

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


ようやく交換留学時代の後半に入ってきた。こんなに長くなるとはおもわんだが、、、。とにかくGatton Campusを離れ、Miltonで夏休みを過ごし、日本にいって、今度はSt Luciaのアパートのすむことになりました。大学(UQ)から徒歩15分くらいの大き目のユニットコンプレックスで、当時は2ベッド2バスルーム、週300ドル(だから僕は週100ドル払ってた)でした。そこに、シンガポール人のカップルと二人ですむことに。変則的なことに、彼らはカップルなのに、女の子がオンスイート(部屋の中にトイレがついてて大体部屋も大きい)に住み、もうひとつの部屋に僕とその彼氏が住む、という。夜はその彼氏は女の子の方の部屋で寝るという。


今考えると、ちょっと利用されていただけなんじゃないか、という思いも(ただ単に300ドルを二人で住むのが高かったから?)しないわけじゃないですが、いまだに彼らとは連絡あるし、当時は僕が車もってなかったから、車を持ってた彼らと一緒に行動できてよかったし、数年前シンガポールに行ったときもお世話になったりしてました。


さて、勉強はというと、これがまた何をしたかよく覚えてない。どうやら成績表によると、会計の基礎(Accounting for Decision Making)、Introductory Economics, International Trade Theory and Policyという三教科を取っていたらしいのだけど、ほぼ記憶無し。ひとつあるのは、会計の教科の最後のアサインメントで、盗作の疑いをもたれたことでしょうか。提出直前に同じクラスだった人に見せたせいだと思ってるけど(その人は僕のを見て提出直前に色々書きなおしてた、、、)、それも学んだレッスンのひとつでしょうか。アサインメントを見せる、という行為に付きまとうリスクを体で理解。こういうの、アサインメントだけじゃないよね。性善説が当てはまらない場面もあるし、他人を責めなくてすむためにも、気をつけることは必要。秘密を誰に話すか、という場面に似てるね。秘密を誰かに話すということは、その誰かは秘密を守らなければならない、という義務が発生するわけで、その義務の履行が行われない場合、当然その誰かとの関係は悪くなる可能性がある。ということで、信頼する、ということは、仮にこいつならもしもその義務の履行が行われても、関係性自体に損傷はないだろう、という確信なのだと思っている。また、脱線した。結果大丈夫だったけど、あれ、大丈夫になっててよかったよ。後から考えたら。でも実際無実だしね、、、。


ちなみに、話が前後するけど、ブリスベン(というかSt Luciaキャンパス)に出てきてまず思ったことは、アジア人が多い、英語がわかりやすい、まさに映画で見るような外国の大学のキャンパスって感じ、の三点。日本の他の大学からの交換留学生も多いし、なんというか、そうだよな、これが普通の留学だよな、、、と思った次第。みんな自分が特別って思いたい理論に違わず、で申し訳ないですが、Gattonのオンキャンパスの寮→ユニットで友達とシェア、という交換留学生は非常に少ないと思われる。滞在期間が短かったら、普通住むところも一括で準備しちゃうし(したがって、通常はいる間ずっと大学の寮にいるケースが大多数なのではと思う)。だからいいのか悪いのか、というとまたこれは当然これは別の問題で、そして当然また一概に言えない。でも、St Luciaキャンパスの寮にいる人は、きっと友達とか作りやすいんだろうなぁと思ってました。でも俺はその間にシンガポール人の英語に慣れたぜw


ベトナム系のオーストラリア人と友人とこの頃は仲良くしてました。彼の友人とサーフィンにいったり(といっても、サーフィンをしていた、と言えるような状態にはもちろんならず、今もサーフボード持っているけど、完全に飾りと化している、やっとボードに乗れる程度まぁそれでも楽しいけど。また脱線)、まぁよく一緒にいました。あと、日本語を勉強している学生と、日本からの留学生の交流会(Conversation Classと呼ばれていた、というか今もあるかも)みたいのがあって、そういうところにいくと、日本に関心を持ってる、日本が好きなオーストラリア人がいるので、さらに交流がし易いのですね。


正直、これ、言っちゃうとなんなだかなぁという話になりそうですが、そういう場にいることをいまいち、って思ってたんですね。理由は、難易度が低いところで楽しそうにやってるから。おれは日本人とつるまない、とか、日本に興味を持ってる人から入るなんて軟弱である、とかそういう思想です。実際のところ、St Luciaにきてまた、最高学府スゲーみたいなこと言われる環境になるわけです。英語がいまいちな日本人が、オーストラリアで人と仲良くなる難易度(この書き方がもう偏差値で育ってきた世代ぽくていやですが→偏差値の過大偏重も問題だけど、そのBackfireもどうなの、と思う。日本以上に学歴偏重の国、結構多い気がする。検証はしてないw)は、日本人→日本が好きなアジア人(アジア系オーストラリア人を除く)→日本が好きなアジア系オーストラリア人→日本が好きな非アジア系オーストラリア人→その他アジア系オーストラリア人→その他非アジア系オーストラリア人、となるとして、Gattonでは、最後のカテゴリー(その他非アジア系オーストラリア人、日本に興味なし)の中で戦ってきた(そして敗戦してきた)僕としては、日本の枠組みが通用してしまうことに軽く快感を抱きながらも、それを悪として捕らえていたわけです。


この順序付けは、実際間違ってはいなくて、ようは共通の会話のトピックの多さに反比例して仲良くなる難易度は高くなるに決まってるってこと。そりゃそうだよね。ただ、この順序付けの問題点は、これがそのまま、難易度が高い→達成してるとすごい(てか、そう僕が思っちゃっていたところ)、ってなるところ(だと思う)。俺、今まで上位リーグで戦ってたんだぜ、と。これ、おそらく敗戦国の意識を引きずっている部分(白人≒アメリカ人に対する劣等感)と、上位に位置する人種が使用する言語(と僕が思ってるわけじゃないですよ、でも、これを説明するとなるとそういう風に心のどこかで思ってる可能性に言及しているだけです)であり、世界で国際言語としての地位を(少なくとも日本語よりは間違いなく)確立している英語に対する劣等感を顕著に示してるんじゃないかなと思うので。一応自分をかばうために一言言うならば、その場にいる日本人の人たちを個人的に軽蔑してたわけじゃないし、今でも連絡取ってる友人もいることに留意を。当時の、その場における僕の精神状況を説明している、ということで、今の僕が思ってることをわけじゃないんだよ。


続く。











トライアスロン日記1

回顧録だけでは今のことまったく書くことがないので、とりあえずトライアスロンに向けての日記を書くことにする。これも備忘録みたいなものだけど。

今日はTwitter上でもFacebook上でもぶつぶつ言っていたとおり、せっかく水泳のSquad Trainingに参加しようとして朝6時にプールにいったら、誰もいなかった。というわけで、今日はこんなトレーニングをやろうと思ってます。

家に事務器具がおいてある(といっても、ルームランナーとベンチプレスだけ)ので、豪雨のこんな日でもトレーニングは家でできるのは救い(といっても、そんなしょっちゅうちゃんと使っているわけではない)。今日のメニューは以下のとおり。ただ腰がまだちょっと痛いので、気をつけないとまた動けなくなる、、、。サポーターつけてやろうかな。とりあえず今は脂肪燃焼して体重減らさないとなぁ。なんやかんやで現在体重90kg。

6:30-7:00 - walking 6-7km/hr
7:00-7:15 - (push up 20, sit up 20, squat 20) x 4
7:15-7:45 - jogging  8 km/hr
7:45:8:00 - stretch
そしてまた寝る!

明日は参加するトライアスロンシリーズの第一戦があるんだけど(これにはエントリーしてない)、こういう天気(雷雨)だと開催されるのだろか。見に行こうかと思ってたんだけど。

暇なので、回顧録。8

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


まだ交換留学編は続く。長いね。


とにもかくにも、2月は日本に一時帰国しました。留学に少しでも憧れをもったことがある人ならわかると思うけど、なぜか日本の空港に久々についたときの高揚感というのはなんなのでしょうか。「俺、日本に住んでて海外に旅行して帰ってきたんじゃないんだぜ、海外に住んでてちょっと日本に帰ってきてんだぜ」みたいな感じなのでしょうか。でも、それでなんでちょっと自分の等級が上がったような気がしてしまうのでしょう。留学がどれだけ珍しいのっていうとたいしたことないわけで、じゃぁたいしたことない(つまりしてる人なんてくさるほどいる)から絶対的な意味でたいしたことないかっていうときっとそういうわけじゃないのだと思うけど。とにかく、誰もきにしてないョ!と自分で後から突っ込みを入れたくなるくらい、すごい人間に変身したと思ってしまうのです(ちなみに、数回でそういう思いもなくなります)。


他人と比べての優越感・劣等感、という軸からはずれたくてしょうがないんだけど、競争(ようは勝つか負けるか)ではない形で内部から湧き上がるモチベーションをどう生み出すのか、というのがテーマになってきています。流れとして。本筋と外れますが。


えっと、今でも覚えてますが、説明会に行ったのが、住友信託銀行で(これはほんと説明会のみ)、あとはソロモンブラザーズ(ちょうどその頃日興シティ証券になった)の説明会に行きました。結局一次面接に行ったのはソロモンブラザーズだけで、二次面接以降についても、大学の学期が始まってしまうということで、6月に帰国してからやってもらう、ということになりました。留学の授業を休んで就職活動ってやっぱおかしいじゃないですか。


そして、ブリスベンに戻って2学期目をSt Luciaですごすわけですが、流れ的にこの就職活動がどうなったかだけ先に記しておきます。一言で言うと完全になめていたのですが、自分が面接で落とされるわけないんだから、2社以上受ける意味ないと思っていたんですね。これはかなりの度合いで信じてました。ただ、現実には、実はソロモンブラザーズも志望していた部門は既に必要な新卒採用の人数は通常の就職活動時期(少なくとも6月前には当然決まっているわけで、、、)に確保済みで、ようは、よほどたいした奴じゃない限りはとらないわけです。結果から言うと、たいした奴じゃなかったわけですw。


実は、6月に日本に帰って、そこから面接をしてもらい、というかおそらく10回くらい面接をして、部門のヘッドまで面接して(今でも印象に残っているんだけど)、「キミの評価が二分しててねー」という話だったわけです。部門のヘッドとの面接の後で、今度の面接はなんと白人さん。交換留学帰りとはいえ、結局今の英語力(今、というのはこれを書いている現在)よりはるかにShitな英語なわけで、そんな状態で、"what do you think about the deflation in japan"って聞かれても、答えられないわけです。そして死亡フラグが立ちました。一社しか受けないというのは今振り返れば愚かな上、大した傲慢さだなと思いますね。これも、成田空港効果に近いのかもしれません(でも、実際のところは英語は大して話せない、というところから、成田空港効果がいかに実力を反映してないかを物語る)。


ただ、思いやりなのかどうか、という点は別としても、両親は、僕が、よく言えばその世代の「トップ人材が受ける」悪く言えば「流行」ったという理由で受けていた(色々当時理由はこじつけてたけど、実際ははそういうことだったと思う)「いわゆる外資の証券会社」に落とされたということで、少なからずほっとしたような話をしてくれました。実際の仕事内容はよくわからないけど、みんなが行きたい人気の職場が実際に自分に合ってるか合ってないかは別問題なのは確か。まぁ、これ、普通に考えて思いやりだよなwちなみに、大学受験のときも、同じような理由でほっとされている。


というわけで、話はSt Luciaの時代に戻ります。


続く。

Thursday, 13 October 2011

暇なので、回顧録。7

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)


St Luciaキャンパスに移ってからは、またしても実はよく憶えてない。


ただ、冷静に考えると、GattonからBrisbaneに移ったとき、St Luciaに行ったんじゃなくて、Miltonに行ったのでした。St Lucia, Miltonは、広域の意味でのBrisbane(Brisbane City Councile)の管轄下でいうところの、地域?(Suburb)です。Miltonにそもそも行ったのは、St Luciaで一緒に住むことになっていたシンガポール人の友人が住んでいた場所が、彼が夏休みに一時帰国する間借りることができたからです。今の家賃のレートから考えると異常ですが、週80ドルでした。Miltonの駅から徒歩5分くらいのところ。やすっ!!


こっちの夏休みは、日本の夏休み同様長くて、11月の半ばか終わりころから2月の終わりまで続きます。てか、暑くて勉強とか無理。せっかく1年しかいないんだし、ということで日本に帰らないつもりだったものだが、暇で暇でしょうがなかった。この頃(St Luciaの授業が始まる前)も意外と色々なストーリーがあった。主に、この時期に日本では就職活動が始まる時期だから。必然的に色々考えるわけです。


まず、日本でもある(たぶん今でも)ように、インターンシップというものをやってみたく思ってました。日本に帰ったらできるかもしれないけど、それよりはこっちの会社で働かせてもらう機会が欲しいと(まぁこれもいたって普通の話なんだけど)。そういうわけで、Gattonにいる頃から、とりあえずResumeを作成して、やたらめったら会社に送りつけてました。唯一返信してくれたのが、Citibank。応募いただいたようなポジションはございません、っていう通知だけだったけど。今振り返れば、そんな丁寧に返信もらっただけでもすごいなと思う。普通しないでしょ??


結局無駄な努力となったわけです。ただ、実はこのあたりが今の仕事につながってきている。次に、こんなことをしてる、と担当の先生(前述の、以前UQで客員教授をやっていた先生)に相談したところ、今の日本人の上司を紹介してくれて、彼と、後に先輩となる日本人の人、もう一人(こっちの日系の会社の社長)とお食事をご一緒させてもらいました。インターン先を紹介してもらう、という目的で。


そのもう一人の方はリゾートオペレーションも行っていて、そこでバイトしてみるか、というお誘いを頂戴したのです。ただ、当時の僕はオフィスワークの経験(ようは日本でコンサルファームとかがやってるようなやつ)をイメージしていたので、またこれはこれで悩んでしまったわけです。今だったらすぐ行ったのに!あぁ、なんてこった。実際、リゾート地まで泊まりにいって、GMにあって話して、みたいなことまでしたわけです。ただ、とにかく自分の心のどこかにひっかかるものがあって、うんうん悩んでたわけです。そのリゾート先であったフランス人の実業家の人に、お前はそんな労働者みたいなことをやる人間じゃない、っと言われて、そうだよな、と思って結局断ったのです。なんかまじ小さい男、、、。それがワタシです。


労働者に対する僕の人間観が出てしまって恥ずかしいのですが、自分が「上」っていう意識があった模様。てか今でもあるのかもしれないし。上下意識・貴賎意識、面白いものだと思います。社会が規定することなのか、自分が規定することなのか、前者の国もあると思うけど、この国では後者だろうね。だから、いい国だなぁと思う。ちょっと脱線してるけど。労働者?の人も、結構お金もらってて(それはそれで問題はあると思うけど-労賃が高すぎる、という点で)、さらにみんなそれぞれがそれぞれで幸せそうに生きてる。あまり、上とか下とか考えてないように見える。見えるだけかもしれないけど、、、。こんなにいちいちDisclaimerつけなくていいですかね。仕事上の癖で、、、。


結果として何もやらず(ダイビングのライセンスを暇つぶしのためにとった以外は)、じゃぁバイトいったらよかったのに、って話なんだけど、とにかく2ヶ月くらいぐだぐだぐだぐだして、その後2月は日本に就職活動しに帰ったのです。


続く。

暇なので、回顧録。6

1.3.交換留学(大学4年一回め途中-大学4年二回目途中)(続き)
(だんだん当初設定したカテゴリーに沿って書くことが難しくなってきたけど、本じゃないから問題ないだろう、、、。)


Gatton campusは、慣れてしまえば意外と優雅なもので、車がないとキャンパスの外へ出れないので、基本的に寮の共有ルームみたいなところ(大きいスクリーンがある部屋と、ビリヤード台がある)でぐだぐだしているわけです。なんかいっつもみんな飲んでた気がする。ここで学んだのが、ラムコークです。Bundaberg Rumのコーラ割り(なぜか他の種類のRumは一切みなかった)をしょっちゅう飲んでました。ビールは正直あまり好きでないので、甘くて飲みやすいということもあり、その後も外で飲むときはラムコークが増えました。


あと、この時期かなり体重が増えました。2002年の夏(オーストラリアの冬)にオーストラリアに来たときは70kgくらいだったのに、途中で75kgを突破しました(数ヶ月前に95kgに到達したことを考えると今と比べたら全然ましなんだけど)。


このとき仲良くしてもらったのが(この書き方がまた卑屈なんだが、自分が話す言葉をまともに話せない人と仲良くするって、結構辛抱強くないとできないと思うんだよな)、MA氏とPU氏と日本人の皆様。特にPU氏とはどっかのタイミングでシドニーに一緒に行ったり、車で買い物とかに連れてってもらってたな。あと、GattonからSt Luciaに引っ越してくるときも荷物も一緒に送ってもらった。もう9年くらいあってないから久しぶりに会ってみたいけど現在はDarwinにすんでいるようなので、そのうち、ですな。(これなんかはSection4で取り上げるべきことか)


正直このころ(Gatton Campus)の頃のことはよく憶えてない。インプットを理解できてないんだから、そりゃそうだよね。留学生の数もあとから考えたら(St Luciaキャンパスに移ってから)ものすごい少なくて、キャンパス上で一番英語できなかった自信がある。他の留学生を見てて、発音とかどうでもいいから、とにかく会話できてるひとがうらやましくてしょうがなかった。来る前は1年って長いと思ってたけど、そして1年も海外にいたら、英語ペラペラになるのではとおぼろげに思ってたけど、今でもペラペラとは言う難し。1年なんて言わずもがなです。20過ぎてからだからしょうがないよね。


ただ、そんな英語でしたが、成績はよかった、といかよくなるための努力はした、、、。これは後々まで続くことなんだけど、大学の勉強のいいところの一つとして、がんばったら結果はうそをつかないということ。最先端の研究とかじゃないからね。言葉をちゃんと話せない、理解できない、というところから、見下されないためには、わかりやすく自分が優秀であることを示す必要があると思ってきた(今でもそう思ってるけど)。実際優秀か、頭いいか、とかそういう問題とは別で、「馬鹿だと思われない」というところに努力をした。こう書くと、ひどい卑屈だね。


やっぱり、「日本だったらこんなはずないのに」、っていう思いと、「じゃぁ日本に帰ってちやほやされたいの?(少なくとも高校とか大学の名前を言うと、オー、と言われることが実際問題多いわけです)、違うっしょ」という思いが交差する日々でした。


この一連の悩みとその悩みを解決するための努力も、全てはくだらない劣等感(これはまさしく優劣感の裏返し)からもたらされるものなんだけど、ただ推進力にはなってたわけです。今現在はむしろこういう感情がなくなってきて、何を推進力に使うか、という問題があるわけです。


Gattonキャンパスを後にして、St Luciaのユニット(アパート)でシンガポール人の友達カップルと住むためにBrisbaneに出てきたわけです。Brisbaneがすごく都会に感じたことをよく憶えてます。


続く。